文化・宗教

古事記と日本書紀は何が違う?|成立の記録と「最初の神」を原典で比べる

『古事記』は序が自分で成立の経緯を語り、『日本書紀』の奏上を記録しているのは『続日本紀』です。冒頭で最初に挙げられる神の名も一致しません。ただし『日本書紀』が並べる「一書曰」のひとつには、『古事記』冒頭と重なる並びが出てきます。三点だけ原典で比べます。
事件

廃藩置県の日、何が命じられたのか|明治4年7月14日の公文書を読む

明治四年の七月十四日から十七日までを収めた『太政官日誌』を開くと、詔・知藩事への勅語・布告・沙汰書が並び、免官の手続きから大参事以下が事務を取り扱うこと、元知事の帰京、藩札の引き換えまでが同じ束に入っています。当日の公文書を束にして読みます。
人物

藤原道長「この世をば」|歌を書きとめたのは誰か

「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の…」の文句を書きとめたのは道長自身ではなく、同じ席にいた藤原実資でした。寛仁二年十月十六日について、『御堂関白記』と『小右記』にそれぞれ何が書かれているのかを、二つの刊本から追います。
城・寺社・史跡

大仙陵古墳と仁徳天皇陵|百舌鳥耳原中陵から大山陵まで名前をたどる

同じ古墳を、宮内庁は百舌鳥耳原中陵、世界遺産の構成資産は仁徳天皇陵古墳と記します。『日本書紀』の百舌鳥耳原、『延喜式』諸陵式の中陵・南陵・北陵、蒲生君平が書きとめた「大山陵」。名前がどうつながって見えるようになったのかを、原典の順に追います。
城・寺社・史跡

金閣は昔も国宝ではなかったのか|銀閣と1939年の国宝建造物目録を比べる

現在、慈照寺銀閣は国宝建造物として登録され、鹿苑寺について確認できるのは庭園の指定です。ところが1939年の『国宝建造物略説目録』には、金閣と銀閣がともに載っています。二つの目録と1928年の寺誌から、確かめられた差と、まだつなげられない経緯を分けて追います。
人物

源義経と頼朝の決裂|『玉葉』『吾妻鏡』はどう記したか

文治元年十月、『玉葉』に写された宣旨では、追討される側に頼朝の名があり、義経は追討する側に置かれていました。約一か月後には向きが逆転します。そして後代に編まれた『吾妻鏡』は、この時期を別の言葉で振り返ります。
人物

織田信長と比叡山焼き討ち|史料はどこまで焼けたと記しているのか

元亀二年九月十二日。同じ一日について、『史料綜覧』の綱文は「其堂塔を焚く」の一行、『信長公記』は「一字も残らず」「数千の屍」と数百字。どこまで焼けたのかを、確かめられた範囲と確かめられない範囲に分けて追います。
暮らし

忍者の歴史|戦国時代の史料に「忍び」はどう記されたのか

天正二年(1574年)、織田信長は自分の居城の曲輪まで敵が忍び入ったと書き残しています。戦国時代の史料に現れる忍び・透波・かまり、その約100年後に編まれた『万川集海』、そして大正から昭和にかけて作られた忍者像を、時代ごとに分けて追います。
政治・制度

江戸時代の身分制度|「士農工商」という言葉と実際の社会

「士農工商」という言葉は江戸時代にあったのか。そして、それは実際の身分制度をそのまま表した言葉だったのか。江戸時代の教訓の書、幕府の法令集の検査、現代の研究、そして後世の公的な教育文書を、分けて追います。
合戦

関ヶ原の戦い|小早川秀秋の寝返りは、どの資料でどこまで追えるのか

「家康が鉄砲を撃ち込んだから小早川秀秋が寝返った」という有名な話は、どの資料に、いつ現れるのか。九月十四日の誓書、当日の京都の日記、約113年後の軍記、そして現代の研究を、一つにまとめずに順番に並べます。