王政復古の大号令|『憲法類編』の布告と『復古記』の日付を読む

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「王政復古の大号令」といえば、日本史では慶応3年12月9日の出来事として知られています。

ところが、実際に古い法令集を開いてみると、少し気になる記述に出会いました。

1873年に刊行された官撰法令集『憲法類編』では、王政復古に関係する布告が、

「丁卯十二月十四日」

の日付で収録されているのです。

一方、1931年刊の『復古記』では、ほぼ同じ文言を含む布告が、

「慶應三年十二月九日」

の項に置かれています。

なぜ日付が違うのでしょうか。

今回の記事では、そこに結論を出すことはしません。

まず、1873年の『憲法類編』には何と書かれているのか。

そして、1931年の『復古記』は、その布告をどの日付に置いているのか。

二つの刊本をそのまま並べて読んでみます。

今回読んだのは『憲法類編』と『復古記』

中心に読むのは、1873年刊行の『憲法類編 第一』です。

司法省明法寮が編纂した法令集で、「條制」の中に今回の布告が収録されています。

『憲法類編』では、この文書に私たちが現在使っている「王政復古の大号令」という題名が付いているわけではありません。

記載されているのは、

「第廿七」
「御布告」

です。

この記事では分かりやすさのため題名に「王政復古の大号令」という一般的な呼称を使いますが、資料を読む部分では『憲法類編』の表記に従って「御布告」と呼びます。

もう一冊確認したのが、1931年刊行の『復古記』第1冊です。

こちらについて今回は、布告本文を細かく読み解くことよりも、どの日付の項に収録されているかに注目しました。

なお、『憲法類編』については二つの別スキャンを確認し、OCR結果を突き合わせました。

古い活字のOCRはかなり誤読します。

そのため、両方で同じ字として確認できた部分を中心に読んでいます。

『憲法類編』では「丁卯十二月十四日」

まず気になる日付から見てみます。

『憲法類編』の「條制」第廿七には、

「丁卯十二月十四日」

とあります。

その下に、

「御布告」

として文章が続きます。

ここで「慶応三年十二月九日」とは書かれていません。

年号ではなく干支の「丁卯」が使われ、日付は十二月十四日となっています。

日本史をある程度知っている人なら、

「王政復古は12月9日では?」

と引っかかるところでしょう。

私も、この箇所を見てまずそこが気になりました。

ただし、今回読んだ資料だけから、

「『憲法類編』が間違っている」

あるいは、

「実際は12月14日だった」

と判断することはできません。

そこで、いったん日付問題を脇に置き、布告そのものを読んでみます。

最初に書かれているのは「大政返上」と「将軍職辞退」

第廿七の御布告は、徳川内府についての記述から始まります。

そこでは、

従前御委任之大政返上

そして、

将軍職辞退

という二つの事柄について触れ、それを今般、

「被聞食候」

としています。

つまり、この布告の冒頭では、徳川側から出された大政返上と将軍職辞退の二つを「聞き届けた」という形で話が始まっています。

ここから一気に、

「徳川幕府はこの瞬間に完全に消滅した」

といったところまで話を広げる必要はありません。

まず資料に書かれているのは、返上と辞退を聞き届けたということです。

そして、このあと文章は大きく動きます。

「自今攝關幕府等廢絶」

続いて登場するのが、王政復古を考えるうえで非常に重要な部分です。

布告には、

「王政復古」

そして、

「国威挽回」

という言葉が現れます。

さらに、

「不論既徃更始一新」

としたうえで、

「自今攝關幕府等廢絶」

と記されています。

「これまでのことを問わず、更始一新する」という文脈の中で、摂関・幕府などを廃絶すると命じているわけです。

教科書で「王政復古の大号令によって幕府が廃止された」と習うと、その一文だけが強く印象に残ります。

ところが原文に近い形で読むと、

「王政復古」
「国威挽回」
「更始一新」
「攝關幕府等廢絶」

といった言葉が連続して置かれています。

一つの制度だけをなくすというより、政治の仕組みそのものを組み替えようとしている文章であることが伝わってきます。

総裁・議定・参与の「三職」

幕府などの廃絶に続いて、布告には、

「総裁議定參與之三職ヲ置レ萬機可為行候事」

とあります。

総裁・議定・参与という三つの職を置き、万機を行うという内容です。

いわゆる「三職」です。

ここも教科書では、

「総裁・議定・参与の三職を置いた」

と短く整理されるところですが、実際に布告の文章の中で読むと、

旧来の仕組みを廃する記述と、新たな職を置く記述が続けて配置されている

ことが分かります。

「幕府をなくした」という部分だけではなく、そのあと何を置こうとしたのかまで一緒に読むと、布告全体の意図が少し見えやすくなります。

廃止するとされた職は幕府だけではない

さらに読み進めると、個別の役職についても廃止が命じられています。

今回確認できた範囲では、

  • 内覧

  • 勅問御人数

  • 国事御用掛

  • 議奏

  • 武家伝奏

  • 守護職

  • 司代

などが挙げられ、

「総被廢候事」

と記されています。

つまり、「攝關幕府等廢絶」という大きな宣言だけではなく、朝廷側に存在していた複数の職についても整理しようとしていることが分かります。

王政復古というと、どうしても「朝廷対幕府」という構図で考えがちです。

しかし布告そのものを見ると、幕府だけを対象にしているのではなく、従来の朝廷の政治機構についても手を入れようとしていることが分かります。

これは本文を実際に読んでみて印象に残ったところです。

「太政官始追々可被為興候間」という文言

同じ部分には、

「太政官始追々可被為興候間」

という文言もあります。

古い文章なので、そのまま読むと少し意味を取りにくいところです。

ただ今回の記事では、あえてこれを現代語で断定的に言い換えません。

「太政官がこの日に完成した」
「新政府の制度がここで確定した」

といった話まで、この一文だけから広げるのは避けたいからです。

今回確認したいのは、

王政復古を掲げた布告の中に、この文言が実際に置かれている

ということです。

政治制度がその後どのように整備されていったのかは、また別の資料を追う必要があります。

その直後にある「第二十八」が面白い

『憲法類編』を読んでいて、個人的に興味深かったのが次の「第二十八」です。

第廿七の御布告の直後に、

「第二十八」
「同日」
「參與ヨリ達」

という文書が収録されています。

つまり『憲法類編』の並びでは、第廿七と同じ日の達です。

そこで書かれているのが、別紙の御布告についての説明です。

その中には、

朝廷と徳川家との間に少しも異事があるということではない

という趣旨の文章があります。

これは、王政復古の布告だけを単独で読むと少し意外に感じます。

直前では、

「自今攝關幕府等廢絶」

と書かれている。

ところが続く達では、朝廷と徳川家との間に異事があるのではないという趣旨の説明が置かれている。

この二つが同じ法令集の中で続けて収録されているわけです。

だからといって、

「幕府は実際には廃止されていなかった」

などと簡単に結論づけることはできません。

しかし、政治的な転換が一枚の布告だけで説明できるほど単純ではなかったことは感じさせる並びです。

では『復古記』では何月何日なのか

ここで、もう一冊の『復古記』を見ます。

『復古記』第1冊の巻八。

今回確認した箇所の柱には、

「慶應三年十二月九日」

とあります。

そして同じ丁には、

「德川内府」
「大政返上」
「將軍職辭退」
「攝關、幕府等廢絕」
「總裁、議定、參與之三職」
「諸事神武創業之始ニ原ツキ」

など、先ほど『憲法類編』で確認した布告と対応する語句が現れます。

OCRの読み順がかなり崩れているため、『復古記』については文章を無理に再構成しませんでした。

ただ、

この布告が「慶應三年十二月九日」の項に配置されている

ことは確認できます。

ここで、最初の疑問に戻ります。

「十二月十四日」と「十二月九日」

二つの資料を並べると、日付が一致しません。

1873年刊『憲法類編』では、

丁卯十二月十四日。

1931年刊『復古記』では、

慶應三年十二月九日。

同じ王政復古に関係する文言を持つ布告なのに、日付が違っています。

なぜでしょうか。

発令の日と何らかの伝達の日が違うのか。

『憲法類編』の整理方法に理由があるのか。

あるいは別の事情なのか。

今回読んだ二冊だけでは、そこまで答えを出せませんでした。

ここで無理に説明を作るよりも、

「実際に二つの刊本を開くと、日付の記載が一致していない」

というところで一度止めたほうがいいと思います。

むしろ、こういう小さな違いに気づけるのが、教科書だけでなく古い資料を直接読む面白さでもあります。

「王政復古の大号令」という題名にも注意したい

もう一つ、資料を読むと気づくことがあります。

現在では誰もが「王政復古の大号令」と呼んでいます。

しかし、今回確認した『憲法類編』では、

「王政復古の大号令」

という題名で収録されているわけではありません。

そこにあるのは、

「御布告」

です。

もちろん、現在の歴史用語として「王政復古の大号令」を使うことに問題があるという話ではありません。

ただ、

「後世に付けられた呼び名」と、
「実際の資料上の表題」

は必ずしも同じではない。

これは歴史資料を読むときに覚えておきたい点です。

実際に布告を読むと「幕府廃止」だけではないことが分かる

王政復古の大号令を教科書で習うと、

「幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職を設置した」

という部分が中心になります。

もちろん、それは重要です。

しかし今回『憲法類編』を読んでみると、もう少し複雑な文章でした。

まず徳川内府の大政返上と将軍職辞退を聞き届ける。

王政復古と国威挽回を掲げる。

「更始一新」とする。

摂関・幕府などを廃する。

総裁・議定・参与を置く。

内覧や議奏、武家伝奏、守護職なども廃する。

そして「太政官始追々可被為興候間」という文言が続く。

さらに、その直後の達では朝廷と徳川家との関係について説明している。

一枚の「幕府廃止宣言」としてだけ見るより、旧来の政治秩序を大きく組み替えようとする一連の文章として読んだほうが、布告の姿が見えやすくなります。

今回二つの資料から確認できたこと

今回の範囲で確認できたことをまとめます。

『憲法類編』は、今回の布告を「第廿七」「御布告」として収録し、日付を「丁卯十二月十四日」としています。

その中には、大政返上・将軍職辞退を聞き届けることや、

「自今攝關幕府等廢絶」

「総裁議定參與之三職ヲ置レ萬機可為行候事」

といった文言があります。

さらに複数の役職を廃すると記し、

「太政官始追々可被為興候間」

という文章も置かれています。

続く第二十八は「同日」の「參與ヨリ達」とされ、朝廷と徳川家との間に異事があるということではない、という趣旨の記述があります。

一方、『復古記』では、同じ布告に対応するとみられる語句が「慶應三年十二月九日」の項に置かれています。

つまり今回の二冊だけを比較しても、

十二月十四日と十二月九日という二つの日付が現れる

ことになります。

なぜ違うのか。

それは、次に調べるべき問題として残りました。

教科書の日付から一歩進んで資料を読む

王政復古の大号令については、

「慶応3年12月9日」
「幕府廃止」
「総裁・議定・参与」

という三つを覚えている人も多いと思います。

しかし実際に古い法令集を開いてみると、そこには教科書の一行では収まらない文章があります。

そして今回は、教科書でよく知られた日付とは異なる「丁卯十二月十四日」という記載にも出会いました。

もちろん、これだけで一般的な年代理解を覆すことはできません。

むしろ重要なのは、

後世の歴史用語や年表と、実際に残された資料の記載をいったん分けて読むこと

だと思います。

「王政復古の大号令は12月9日」。

そこからもう一歩進んで、

「では、実際の刊本にはどう書いてあるのだろう」

と確認してみる。

今回の記事は、そのところまでです。

今回確認した資料について

今回直接確認したのは、1873年刊『憲法類編 第一』と1931年刊『復古記 第1冊』です。

『憲法類編』については二つのスキャンを利用し、同じ丁のOCR結果を突き合わせました。両方で一致しなかった文字については、無理に逐語引用していません。

また、今回確認した『憲法類編』は1873年に編纂された法令集であり、慶応3年当時の原文書そのものではありません。

『復古記』についても1931年刊行の編纂物です。今回利用した箇所はOCRの読み順が崩れていたため、文章そのものを再構成せず、日付と確認できた語句を中心に扱いました。

『憲法類編』の「丁卯十二月十四日」と『復古記』の「慶應三年十二月九日」がなぜ異なるのかについては、今回確認していません。

参考資料

  • 『憲法類編 第一』[司法省]明法寮編、1873年
    国立国会図書館デジタルコレクション pid 787461
    「條制」第廿七「御布告」、第二十八「參與ヨリ達」(コマ27〜28)

  • 『憲法類編 第一』別スキャン
    国立国会図書館デジタルコレクション pid 3436769

  • 『復古記 第1冊』太政官編、1931年
    国立国会図書館デジタルコレクション pid 1148133
    巻八「慶應三年十二月九日」の項(コマ149)

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