本能寺の変は、天正10年(1582年)6月2日に京都で起きた事件です。この記事は、光秀がなぜ謀反を起こしたのかという問いに答えを出すものではありません。答えが出ていないからです。
そのかわりに、四つのことを分けてお見せします。①史料から確認できる経過、②同時代や事件直後の史料がその出来事をどう書いたか、③後世に動機の説明がどう形づくられ、どう変わってきたか、④いま確認できる研究上の説明と、その限界です。この四つは別のものです。混ぜると「史料にこう書いてあるから動機はこうだった」という飛躍が起きます。
いつ・どこで起きたのか
本能寺の変が起きたのは天正10年6月2日です。この記事では和暦の日付を基本の表記にします。 天正10年は西暦1582年にあたりますが、日単位の西暦換算については、この記事の出典の範囲で根拠を確認できていません。そのため西暦の月日は書きません。
東京帝国大学史料編纂所の『史料綜覧』は、この日の綱文として「前右大臣正二位織田信長、惟任光秀ノ弑ニ遭ヒ、本能寺ニ薨ズ」、そして「従三位左近衛権中将織田信忠……二条御所ニ拠リ、光秀ノ兵ト戦ヒテ、自殺ス」を立てています。綱文というのは、史料編纂所が史料を突き合わせたうえで立てた見出しです。
同時代の記録も残っています。奈良の興福寺多聞院で書かれた『多聞院日記』の天正十年六月二日条には、「信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々」という記述があります。城介は織田信忠のことです。
これらを合わせると、天正十年六月二日に、京都の本能寺で織田信長が、二条新御所で嫡男の信忠が、明智光秀の軍勢に攻められて死亡したとされます。この経過そのものは、研究のうえで争われていません。 争われているのは動機です。
史料に記された経過
『史料綜覧』の五月廿九日条は、信長が「近臣数十人ト共ニ入洛シ、本能寺ニ館ス」としています。事件の三日前です。手勢の少ない状態で京都に入っていたことが、綱文の形で記されています。
『信長公記』は、六月朔日の夜に丹波亀山で光秀らが談合し、老ノ坂から桂川を越えて本能寺を取り巻いたと記しています。
襲撃の場面について、『信長公記』は、森乱が明智の者と見えると言上したのに対し、信長が「是非に及ばず」と応じたと記しています。この一句は広く知られていますが、「信長がそう言った」ではなく「『信長公記』にそう記されている」までしか言えません。 あとで見るように、同じ場面を別の書き方で記した史料もあります。
信長の最期について、『信長公記』は、信長が殿中の奥深くへ入り、内から戸を引き立てて腹を召したと記しています。二条新御所の信忠については、腹を召し、介錯を鎌田新介に命じ、遺骸を縁の板の下に隠すよう言い残したと記しています。
事件はどう伝わったか
『多聞院日記』六月二日条は、事件の知らせが奈良に届いた時刻を「今曉之事、今日四之過ニ聞ヘ了」と記しています。京都で未明に起きたことが、その日の昼前には奈良に伝わっていたことになります。
翌日の六月三日条には、「京ヨリ注進之面、信長ハ本能寺ニテ、城介ハ二条殿ニテ生害」とあります。信長と信忠の死んだ場所が、この早さで書き分けられています。
ただし、この記録を書いた人は現場にいません。 六月二日条の末尾には「様躰ハ慥ニ不知」、六月三日条の冒頭には「京都ノ儀慥ニハ不聞ヘ」と、記主自身が書いています。同時代の記録であることと、内容が正確であることは、別のことです。記主自身がそれを断っている、というのがこの二つの一句の意味です。
記録を残した史料はどういうものか
事件を伝える史料は、それぞれ立場も成立時期も違います。この記事が実際に読んだ範囲で整理します。
| 資料 | どういうものか | この記事での扱い |
|---|---|---|
| 多聞院日記 | 奈良の僧が書いた同時代の日記 | 伝わり方と、記主の留保をそのまま示す |
| 信長公記 | 織田家に仕えた太田牛一による信長の伝記 | 経過の記述として使う。中立な記録としては扱わない |
| 惟任退治記 | 豊臣氏の右筆が記した、変の直後の叙述 | 記述の存在として使う。勝者の側の文章として扱う |
| 史料綜覧 | 史料編纂所が史料を突き合わせて立てた綱文 | 経過の骨格として使う |
『信長公記』について、野口隆は、実際に織田家に仕えていた太田牛一の手になる信長の伝記であり、内容は史料性が高いと評価されている、と述べています。ただし「史料性が高い」は「中立である」という意味ではありません。書いたのは討たれた側に仕えた人物です。
成立の時期も同時代ではありません。野口隆は、池田家本『信長公記』の奥書に「慶長十伍」とあることから、同書は慶長十五(一六一〇)年より以前に成立したと記しています。事件から四半世紀ほどのちということになります。
『惟任退治記』については、『改定史籍集覧』の解題と跋が、豊臣氏の右筆(祐筆)による筆記とし、紀州御発向記・四国御動座記・任官記などと合わせて『豊臣秀吉公御事記』を成すものと説明しています。つまり勝った側の政権のもとで書かれた文章です。
なお『改定史籍集覧』は、同じ『豊臣秀吉公御事記』の著者名を、解題と跋では「太田由己/太田由已」、別の奥書では「大村由己」と、異なる表記で記しています。この記事はどちらが正しいかを決めません。
史料の格付けについては、この記事の判断ではなく史料編纂所の区別を示します。『史料綜覧』は、六月二日の綱文の根拠として、公卿補任・言経卿記・兼見卿記・多聞院日記・蓮成院記録・原本信長記・家忠日記などを挙げ、明智軍記・川角太閤記・太閤記などは〔参考〕として区別しています。
数値も一致しません。光秀の軍勢について、『惟任退治記』は二万余騎と記しています。一方、熊田千尋は、「川角太閤記」では一万三千人とされていると紹介しています。どちらかに寄せて一つの数字にはしません。
最も早い時期の史料は、動機をどう書いたか
ここからが動機の話です。ただし、以下はすべて「史料がそう書いている」という話であって、「実際にそうだった」という話ではありません。
『信長公記』は、六月朔日の夜に光秀・明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐らが談合し、信長を討ち果たして天下の主となるための調儀を究めた、と記しています。談合の場にいない者が書いた記述であり、そこに居合わせなかった人が内心を知ることはできません。
『惟任退治記』の書き方は違います。同書は、光秀が二万余騎を率いながら備中へ下らず密かに謀反を企てたとし、これは当座の思いつきではなく「年来逆意」であったと記しています。「年来」、つまり以前から抱いていたものだ、という書き方です。
同書はまた、夜討の由を聞いた信長が森蘭丸に問い、謀反が惟任のものだと知らされた場面を「以怨報恩の謂、様無きに非ず」「今更何ぞ驚くべけんや」と書いています。
ここで、先ほどの『信長公記』と読み比べてください。同じ場面で、『信長公記』は「是非に及ばず」、『惟任退治記』は「今更何ぞ驚くべけんや」。最も早い時期の二つの叙述で、信長の言葉が違います。 この記事は、どちらかを実際の発言として採りません。二つの記述がある、という形で残します。
もうひとつ。『惟任退治記』は、五月廿八日の愛宕山の連歌と光秀の発句を挙げ、「今これを思惟するに、則ち誠に謀反の先兆なり」と、事後から先兆として意味づけています。「今これを思惟するに」と、書き手自身が事後の解釈だと断っています。 のちに連歌の句が動機の証しのように語られていく、その最初の形がここにあります。
動機の説明はどう移り変わってきたか
動機の説明は、時代とともに姿を変えてきました。ここは「どの説が正しいか」ではなく、「どう語られてきたか」の話です。
江戸時代の文学と、怨恨という筋書き
野口隆は、江戸時代の文学作品によく描かれるのはいわゆる怨恨説であり、その中では光秀が信長に暴行され恥をかかされたので恨んだという趣旨のものが多くを占める、と述べています。
具体的な話もあります。野口隆は、光秀が自分の母を人質にして八上城の波多野秀治を降伏させ、信長が秀治を誅殺したため母が惨殺された、という話を載せる文献が江戸時代に存在すると述べています。この話は怨恨の根拠としてよく語られます。
ただし野口隆は、この母を人質にしたという話について「現在の歴史学では、人質云々というのは史実とは認めがたいとされている」と述べています。「嘘だった」と断定するのではなく、「史実とは認めがたいとされている」という言い方の範囲で受け取ってください。
後世の軍記が広めたもの
野口隆は、『明智軍記』全十巻が元禄十五年に刊行されたこと、著者が未詳であることを記しています。事件から百年以上のちの編纂物です。先に見たとおり、『史料綜覧』もこの書を〔参考〕の側に置いています。
史料としての評価についても、野口隆は、高柳光寿が『明智軍記』について「この書は悪書であり、辞世と伝えるものも全く信用できない」と述べたことを引用しています。
近代に入ってからの説明
徳富猪一郎は、光秀の謀反の動機をめぐる議論を、深い計画によるもの、身の危険によるもの、怨恨への報復によるもの、の三つに整理したうえで、その主な動機は二度と得られない好機に乗じた野望だったと論じています。大正時代の著述です。現在の研究水準を示すものではなく、「こう論じた人がいた」という位置づけで読んでください。
そして現在。「本能寺の変の原因は明智光秀の怨恨である」という理解が広く流布しており、「本能寺の変には黒幕がいた」という理解も流布しています。いずれもそういう理解が存在するという事実であって、史実の記述ではありません。
いま確認できる研究上の説明と、その限界
ここが、この記事でいちばん慎重に書く必要のある部分です。
熊田千尋は、江戸時代には軍記物などをもとにした俗説が流行して怨恨説が語られ、明治期にも怨恨説が主流であったが、大正期に野望説、昭和以降に四国説が現れた、という順で動機の説明の移り変わりを整理しています。前の節で見た流れは、この整理とおおむね重なります。
そのうえで熊田千尋は、信長の四国政策における長宗我部元親の扱いの変更に変の主因を求める四国説を、「現在有力視されている」ものと位置づけています。熊田千尋は続けて、『石谷家文書』と先行研究を結びつけ、二度にわたる信長の一方的な四国政策の変更により光秀の謀叛の動機が形成されたと考えられる、と論じています。
ここは正確に読んでください。 「現在有力視されている」というのは熊田千尋による位置づけです。この記事は、この評価を本サイト自身の判断として繰り返しません。そもそもこの整理をしているのが四国説の論者である、ということも併せて見ておく必要があります。
熊田千尋は、四国説に立つ研究者の間でも力点が異なるとして、藤田達生は織田政権内の派閥抗争に、桐野作人は信長の一門衆の拡張路線に、谷口克広は光秀の老齢と追放への恐れに、各々力点を置いていると紹介しています。また熊田千尋は、徳富蘇峰が野望説を打ち出し、桑原三郎が光秀の勢力削減への反応とみて、高柳光寿が野望説に立ちつつ契機を信長の四国政策変更に求め、桑田忠親が怨恨説に立つ、と紹介しています。
この記事は、これらの研究者の説を自分の言葉で要約しません。 それぞれの原著を読めていないからです。読めていないものを要約すると、紹介の紹介が独り歩きします。書けるのは「熊田千尋がこう紹介している」までです。
どこまで読めていないのかを、ひとつ実例で示します。熊田千尋が引く桑原三郎の論文について、『国史学界 昭和14年』の雑誌論文目録には、桑原三郎「本能寺變の一起因 ―信長と光秀の勢力軋轢について―」(歴史地理)が収録されています。論文が実在することは熊田千尋とは別の資料で確かめられました。しかし本文は読めていません。 つまり中身については、依然として紹介に頼っています。
熊田千尋が引く同時代の記録についても同じです。熊田千尋は、長宗我部元親の旧臣が記した「元親記」に「扨斎藤内蔵助は四国の儀を気遣に存(する)によって也」とあると紹介しています。また、変の直後に山科言経が「日向守内斎藤内蔵助、今度謀反随一也」、勧修寺晴豊が「早天ニ斎藤(内)蔵助ト申者明智者也。武者なる物也。かれなと信長打談合衆也」と日記に記していると紹介しています。さらに、吉田兼見が変後の六月七日に光秀と対談した模様を「今度謀反之存分雑談也」と記していると紹介し、その典拠として『史料纂集 兼見卿記』第二所収の「兼見卿記(別本)」を挙げています。これらはいずれも、この記事が原典を読んでいない記録です。
黒幕を立てる説についても、この記事は支持も否定もしません。熊田千尋は、いわゆる謀略説を検証した文献として、谷口克広『検証 本能寺の変』、鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』、桐野作人『真説 本能寺の変』の各書を挙げています。「黒幕説を支持する文献」ではなく「検証した文献」として挙げられているという点は、崩さずに受け取ってください。
動機とは別の軸にある史料
動機説の分類には出てこない種類の証言もあります。白峰旬は、本能寺の変に明智方として参戦した本城惣右衛門の『本城惣右衛門覚書』が寛永十七年(一六四〇)成立の「戦功覚書」であり、史料批判のうえで活用すべきものだと位置づけています。
白峰旬は、この覚書の記載として、本城惣右衛門が信長の切腹を夢にも知らなかったこと、京へ進路を変えたのは徳川家康への援軍に行くものと思ったこと、本能寺の場所を知らなかったことを挙げています。攻めた側の下級の武士が、何を攻めるのか知らされていなかったと後年書いている、という記録です。 これは光秀の動機を示すものではありません。別の軸の話として受け取ってください。
事件のあと
『多聞院日記』六月五日条は、「安土ハ去四日ニ向州ヘ渡了」「順慶ハ堅以惟任ト一味云々」と記しています。向州も惟任も光秀を指します。ただし「一味云々」は伝聞の形で書かれています。
『史料綜覧』の六月十三日条は「神戸信孝、羽柴秀吉等、惟任光秀ト山城山崎ニ戦ヒ、大ニ之ヲ破ル、光秀、走リテ、勝龍寺城ニ入リ、是夜、逃レ出デテ、途ニ土民ニ殺サル」としています。明智光秀は本能寺の変ののち、天正十年六月十三日の山崎の合戦で敗れたとされます。
さらに六月十七日条は、光秀の首級が本能寺に梟され、斎藤利三が六条河原で斬られたのち両者の屍が粟田口に磔にされたとしています。
この記事で直接は言えないこと
史料の射程を越えそうな箇所を、先にお断りしておきます。
ひとつめ。光秀の動機について、この記事は何も決めていません。 最も早い時期の叙述である『惟任退治記』が「年来逆意」と書いていることも、それが事実だという意味ではありません。勝った側の政権のもとで書かれた文章にそう記されている、という事実にとどまります。
ふたつめ。信長の言葉を確定できません。 「是非に及ばず」と「今更何ぞ驚くべけんや」は、どちらも最も早い時期の史料の記述です。どちらかを実際の発言として採る根拠を、この記事は持っていません。
みっつめ。西暦の月日を書けません。 天正10年6月2日にあたる西暦の日付は、用いた暦によって変わります。根拠を確認できていないので、和暦の表記だけにしています。
よっつめ。原文の引用ブロックを置いていません。 この記事が読んだ『信長公記』『惟任退治記』『近世日本国民史』は、いずれも文字認識の精度や校訂記号の混入のために、一字一句の再現に耐えません。本文中で『惟任退治記』の語として示した短い句は、漢文を読み下した形であって、原文の転記ではありません。『信長公記』の「是非に及ばず」も同じです。『近世日本国民史』については、原文の語をそのまま示すことを避けて要約にしました。
参考にした資料
この記事が実際に読んだ資料です。
- 『多聞院日記』第3巻(辻善之助 編、三教書院、1939年)— 国立国会図書館デジタルコレクション pid 1207471
- 『信長公記』巻之下(太田牛一 著、甫喜山景雄 刊、1881年)— pid 781194
- 『改定史籍集覧』第13冊(近藤瓶城 編、1906年。別記第二十三「惟任退治記」所収)— pid 1920348
- 『史料綜覧』巻11(東京帝国大学史料編纂所、1944年)— pid 2994257
- 『国史学界 昭和14年』(筑波家国史研究部 編、1940年)— pid 1917651
- 徳富猪一郎『近世日本国民史 織田氏時代 後篇』(民友社、1919年)— pid 960821
- 熊田千尋「本能寺の変の再検証 ―先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合―」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号、2020年 — 京都産業大学学術リポジトリ
- 野口隆「明智光秀の母と八上城攻略」『大阪学院大学 人文自然論叢』第88号、2024年 — 大阪学院大学学術機関リポジトリ
- 野口隆「『明智軍記』の光秀没年」『大阪学院大学 人文自然論叢』第73-74号、2017年 — 同リポジトリ
- 白峰旬「「戦功覚書」としての『本城惣右衛門覚書』(その1)」『別府大学大学院紀要』第22号、2020年 — doi:10.32289/gk02206
