「鎌倉幕府の成立は何年か」という問いには、ひとつの答えがありません。研究のうえでは、これまでに1180年・1183年・1184年・1185年・1190年・1192年という6つの時期が成立期として挙げられてきました。長又高夫は、先学が成立期としてきた時期としてこの6つを挙げています。
なぜ6つもあるのか。理由は単純です。鎌倉幕府の「成立」を何によって定義するかが、研究者によって違うからです。頼朝が鎌倉に本拠を置いたことを重く見るのか、朝廷から権限を認められたことを重く見るのか、役所ができたことを重く見るのか、あるいは将軍という官職に就いたことを重く見るのか。どれを画期と考えるかで、答えの年が動きます。
なぜ6つの候補があるのか
長又高夫は、この分かれ目はこの軍事政権の権力構造をどう捉えるかにあり、「東国国家論」と「権門体制論」のどちらの立場から論ずるかで成立画期が異なってくる、と説明しています。そして長又自身は、鎌倉幕府の成立を一時期に特定することは余り意味のないことであり、鎌倉幕府という組織がどのように成立してゆくのかをさまざまな視点から考察する必要がある、としています。
ひとつ先に確かめておきたいことがあります。長又高夫は、「鎌倉幕府」という語そのものが江戸時代以後の歴史家が創出したものであり、鎌倉幕府という言葉が当時からあったわけではない、と述べています。つまりこの記事が探しているのは、当時の人が「幕府ができた」と意識した瞬間ではなく、後世のわたしたちがどこを区切りと見るかという問題です。
6つの候補を一覧で
| 年 | 何が起きたとされるか | 何を重く見る考え方か |
|---|---|---|
| 1180(治承4)11〜12月 | 頼朝の新邸と侍所が整えられ、御家人の着到が行われた | 東国の実質的な支配者となった点 |
| 1183(寿永2)10月 | 東海東山諸国の年貢・荘園の返還などを内容とする宣旨が出された | 朝廷から権限を認められた点 |
| 1184(元暦元)8〜10月 | 邸内に公文所が造営されて吉書始が行われ、問注所が置かれた | 機構が整えられた点 |
| 1185(文治元)11月 | 守護・地頭の補任と兵粮米の賦課について申し入れと返答があった | 支配が西国にも及んだ点 |
| 1190(建久元)11月 | 権大納言および右近衛大将に任じられた(翌月に辞任) | 「幕府」の語源にあたる官職に就いた点 |
| 1192(建久3)7月 | 征夷大将軍に任じられた | 将軍という官職に就いた点 |
6つの候補を順に読む
以下、それぞれを順に見ていきます。どの節でも、史料が実際に何を書いているかと、そこから直接は言えないことを分けて示します。なお中世の史料は和暦で日付を記します。以下で「十一月十七日」などと書くのはすべて和暦です。
1180年 — 鎌倉に本拠が置かれた段階
『吾妻鏡』治承四年十一月十七日条は、和田義盛を侍所別当に補したこと、義盛が石橋山合戦の後この職を望み申していたため許諾があったことを記しています。侍所という機関名と、その別当が置かれたことが、この条から読み取れます。
続く十二月十二日条は、頼朝が大倉郷に新造した御亭へ移ったこと、供の者が侍所に二行に対座して和田義盛が中央に候し着到したこと、出仕した者が三百十一人であったことを記しています。侍所は十八箇間の規模だったとされます。そして『吾妻鏡』はこの記事を、次のように結んでいます。
爾より以降、東国は皆その有道を見、推して鎌倉主となす
『吾妻鏡』治承四年十二月十二日条(日本古典全集1927・第1)
これらをまとめれば、治承四年十一月から十二月にかけて、頼朝の新邸と侍所が整えられ、御家人の着到が行われたとされます。1180年をもって成立とする見方があり、実質的に東国の支配者となった点を重視するものです。
ただし、ここから直接は言えないことがあります。まず「推して鎌倉主となす」は、出来事の記録ではなく編纂者による総括の言葉です。また、この条は後世の幕府侍所が持っていた職掌がこの時点で整っていたとは書いていません。そして『吾妻鏡』は事件から約100年後に編まれた書物であり、この記述だけをもって出来事が確定したとは言えません。
1183年 — 朝廷が権限を認めた段階
この年を重く見る考え方は、いわゆる寿永二年十月宣旨に注目します。まず同時代の日記から確かめましょう。九条兼実の『玉葉』寿永二年十月一日条は、先に頼朝のもとへ遣わした院庁官がこの両三日以前に帰参したこと、および頼朝が折紙に載せて三ヶ条を申したことを、伝聞として記しています。
翌十月二日条は、その三ヶ条の内容を記します。①平家が押領した神社仏寺領を元のとおり本社本寺に付す宣旨を下されたいこと、②院宮諸家領も同様に本主へ返し給わりたいこと、③降参してきた武士らを斬罪に行わないでほしいこと。頼朝の側が朝廷に何を求めたのかが、同時代の記録から分かります。
ここで注意が必要です。この二つの条には「寿永二年十月宣旨」という語も、東国国衙の在庁支配権の追認にあたる記述も見えません。『玉葉』が伝えているのは、院の使者が戻ったことと、頼朝が三ヶ条を申したことまでです。
では宣旨の内容はどう分かるのか。岩田慎平(2022)は、この宣旨を次のように復原し、文書形式上の受取人は東海東山両道の諸国の在庁官人であって、頼朝にはそれを施行する権限が与えられたとする理解を紹介しています。
東海東山諸国年貢、神社仏寺王臣家領庄園、如元、可随領家、有不服之輩者、触頼朝、可致沙汰
岩田慎平「鎌倉幕府と寿永二年十月宣旨について」による復原
この文言は原本そのものではなく、研究による復原です。それを踏まえれば、寿永二年十月に、東海東山諸国の年貢・荘園の領家への返還と、不服の者について頼朝に触れて沙汰させることを内容とする宣旨が出されたとされます。
この宣旨を成立の画期とする考え方は、はっきりと提唱者が分かっています。佐藤進一は、この宣旨によって頼朝の東海東山両道の実力支配が朝廷に承認され、頼朝が国家公権と結び付き、その家政機関が両道の諸国に対する行政権を与えられて国家の行政機関となったとし、幕府を国家的意義において理解する限り鎌倉幕府の成立はここに置くべきだとします(岩田慎平2022による紹介)。
もっとも、この見方には批判的な検討も加えられています。岩田慎平(2022)は、宣旨によって頼朝に与えられた権限がその後も継続したのかを疑問とし、頼朝の死後にそれをどう扱うかが公武間で議論された形跡が見当たらないこと、上総国の事例で幕府が介入を避けたと見られることを挙げて、宣旨の内容を鎌倉幕府の永続的な権限として捉えることに再検討を加えています。
1184年 — 役所らしいものが現れた段階
『吾妻鏡』元暦元年八月廿四日条は「被新造公文所。今日立柱上棟」として公文所の立柱上棟を記し、同月廿八日条は新造公文所に門が立てられたことを記しています。同年十月六日条は「新造公文所吉書始」として、安芸介中原広元・院次官中原親能・主計允藤原行政・足立右馬允藤内遠元らが参上し、邦通が吉書を書き、広元が御前で披覧したことを記しています。
同じ十月の条には、諸人の訴論対決について、御亭東面の廂二箇間をその所とし、これを問注所と号して額を打ったことが記されています。裁きの場所を邸宅の一角に定めて名前を付けた、という記述です。
以上から、元暦元年に、頼朝の邸内に公文所が造営されて吉書始が行われ、御亭東面の廂二箇間が問注所と号されたとされます。幕府機関としての公文所・問注所の設置をもって1184年を成立とする見方があります。
ここは誤解が生じやすいところです。『吾妻鏡』が元暦元年に記す公文所・問注所は、建物の造営と場所の充当、および吉書始という行事として記されているものです。後世に整理されたような幕府機関としての政所・問注所の完成形を、この時点に遡らせることはできません。実際『吾妻鏡』建久二年正月十五日条は「被行政所吉書始」として政所の吉書始を記しており、元暦元年の公文所吉書始とは別の記事です。1184年に政所が置かれたと書くことはできません。
1185年 — 守護・地頭と兵粮米
おそらく最も有名な候補です。『吾妻鏡』文治元年十一月廿八日条は、諸国平均に守護・地頭を補し、権門勢家の荘園公領を論ぜず兵粮米を宛て課すべき旨を、この夜、北条時政が藤原経房に謁して申した、と記しています。兵粮米の額は段別五升と記されます。翌廿九日条は、時政が申し入れた諸国守護地頭・兵粮米の事について、早く申請のとおり御沙汰あるべき旨が仰せ下された、と記しています。
つまりこの二つの条から読めるのは、文治元年十一月に、諸国への守護・地頭の補任と兵粮米の賦課について、鎌倉方から朝廷への申し入れと、それを認める旨の返答があったとされる、ということです。
注意したいのは、この条が記しているのは申し入れと勅許という手続きであるという点です。後世に整理されたような全国一律の守護・地頭制度の完成を述べたものではありません。また守護・地頭は兵粮米の賦課と一体で語られており、守護・地頭だけを切り出した記述でもありません。それでも、支配の及ぶ範囲が東国にとどまらなくなったことを重く見れば、この年を画期とする理由が生まれます。
1190年 — 「幕府」の語源にあたる官職
この年は、官職の任命が候補の根拠になります。『吾妻鏡』建久元年十一月の条は、勲功の賞により頼朝が権大納言に任じられたことを民部卿の書状として載せ、あわせて頼朝が辞退を申し出た請文を載せています。続く十一月廿四日条は、その夜に除目が行われ、蔵人右少弁家実が「右近衛大将源頼朝」と宣下したことを記しています。このときの頼朝の請文には「辞退之志者多之。所望之儀者無之」——辞退したい気持ちは多く、望む気持ちはない——とあることも載せられています。
そして翌月です。『吾妻鏡』建久元年十二月三日条は、頼朝が権大納言・右近衛大将の両職の辞状を上らせたことを記し、それ以降の記事では頼朝を「前右大将家」と表記しています。
まとめれば、建久元年十一月に頼朝は権大納言および右近衛大将に任じられ、翌十二月に両職を辞したとされます。1190年の右近衛大将任官をもって成立とする見方がありますが、この見方を扱うときには、頼朝が翌月に同職を辞していることを併せて示す必要があります。官職に就いた事実だけを取り出すと、記録の半分を落とすことになります。
1192年 — 征夷大将軍への任官
最後に、最もよく知られた年です。「鎌倉幕府は1192年に成立した」という理解は広く流布しています。まず史料が何を記しているかを見ます。『吾妻鏡』建久三年七月廿日条には、次のようにあります。
大理飛脚參著。去十二日。任征夷大將軍給
『吾妻鏡』建久三年七月廿日条(日本古典全集1927・第3)
去る十二日に征夷大将軍に任じられたことと、除書を勅使に差して進めたい旨が伝えられた、という記述です。ここが重要です。『吾妻鏡』が記す任官の日は七月十二日であり、鎌倉に飛脚が着いた廿日とも、除書が届いた日とも別です。除書が鎌倉に到着した日と、征夷大将軍に任じられた日は別の日です。
その除書が届いた日については、少し厄介な問題があります。勅使庁官の中原景良・康定らが征夷大将軍の除書を持参して鎌倉に参着したことを記す条について、この記事が用いた1927年刊本は「廿五日。丙申」と印刷しています。一方、岩田慎平(2017)はこの条を「二十六日条」と呼んでいます。さらに同月の干支の連続(廿三日癸巳・廿四日甲午)からは、丙申は廿六日にあたります。校訂本と研究上の扱いに違いがあり、この記事では正しい日付を決めません。底本や別の校訂本を確認できていないため、未解決のまま示しておきます。
出来事としては、源頼朝の征夷大将軍任官は建久三年(1192)のこととされます。そして征夷大将軍への任官をもって1192年を鎌倉幕府の成立とする見方があります。
なお1192年をめぐっては、史料そのものの性格に関わる論点もあります。岩田慎平(2017)は、延慶本『平家物語』に、頼朝が鎌倉にいながら征夷大将軍に任ぜられ、それを伝える使者が鎌倉で頼朝と対面する逸話が描かれていること、およびそれが寿永二年(1183)の記事として置かれていることを紹介し、この記述について「虚構であるのは言うまでもない」としています。さらに岩田は、『平家物語』の当該記事と『吾妻鏡』建久三年七月の当該条の先後関係や「原平家」との関係について、論者により評価が分かれていると述べています。『吾妻鏡』にそう書いてあることと、その記述がどこまで事実の記録であるかは、別の問題だということです。
細かいことですが、混同しやすい点を一つ。岩田慎平(2017)は、木曾義仲の征夷大将軍就任について「これも実際には『征東大将軍』であった」と注記しています。
1185年説はどう扱われているか
「鎌倉幕府の成立は1185年である」という理解も流布しています。この点について、鎌倉幕府の成立時期を論題とする研究・教育向けの記事が複数刊行されています(高橋秀樹「鎌倉幕府成立は『イイハコ』になったのか」日本歴史852号2019、前田大志「中学歴史 鎌倉幕府成立時期の再考」歴史地理教育2021 など)。成立時期が論題として意識されていることは、こうした表題からもうかがえます。
では公的な教育の枠組みはどう定めているのでしょうか。中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編は、中世の日本の学習事項として次のように定めています。
鎌倉幕府の成立,元寇(モンゴル帝国の襲来)などを基に…武家政権が成立し,その支配が広まったこと…を理解すること
中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編
成立年を指定していません。ここで確認できるのは学習指導要領解説の記述までであり、個々の教科書が何年と書いているかについては、この記事では扱いません。
どこを画期と考えるか
6つの候補を並べてみると、年号の暗記の問題ではないことが分かります。1180年は本拠と家臣団の秩序、1183年は朝廷からの権限、1184年は機構、1185年は支配の範囲、1190年と1192年は官職——それぞれ別のものを「幕府らしさ」の指標にしています。長又高夫は、1190年(右近衛大将任官)と1192年(征夷大将軍任官)を成立とする見方について、「幕府」の語源にこだわるもので、あまりに形式に過ぎる見方であると評価しています。これは長又の評価であり、学界の合意ではありませんが、指標の選び方が評価を分けるということはよく表れています。
そして繰り返しになりますが、この分かれ目は権力構造をどう捉えるかにあり、「東国国家論」と「権門体制論」のどちらの立場から論ずるかで成立画期が異なってくる、と長又は説明しています。立場が違えば、同じ史料を読んでも画期は動きます。
だからこの記事は、「1192年は間違いで1185年が正解だった」という結論を取りません。長又高夫が述べるように、鎌倉幕府の成立を一時期に特定することにはあまり意味がなく、鎌倉幕府という組織がどのように成立してゆくのかをさまざまな視点から考察する必要がある、という見方もあります。どの出来事を武家政権成立の画期と考えるかによって、成立年は変わる。それがこの問いの答えです。
参考にした史料
- 『吾妻鏡』(与謝野寛ほか編纂・校訂、日本古典全集刊行会、1927)第1・第3 — 国立国会図書館デジタルコレクション pid 1110798/pid 1109681
- 『玉葉:一名・玉海』(藤原兼実著、国書刊行会校、1907)第2 — 国立国会図書館デジタルコレクション pid 772050
- 長又高夫「鎌倉幕府成立論」『身延論叢』14号、2009年、35-82頁 doi:10.15054/00000310
- 岩田慎平「鎌倉幕府と寿永二年十月宣旨について:常陸吉田神社文書の再検討」『立命館文學』677号、2022年、66-78頁 doi:10.34382/0002003290
- 岩田慎平「頼朝の征夷大将軍就任をめぐる『平家物語』と『吾妻鏡』」『立命館文學』654号、2017年、43-55頁 doi:10.34382/0002004793
- 高橋秀樹「鎌倉幕府成立は『イイハコ』になったのか」『日本歴史』852号、2019年、64-73頁
- 前田大志「中学歴史 鎌倉幕府成立時期の再考」『歴史地理教育』2021年2月
- 中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 社会編、文部科学省、2017年 PDF
『吾妻鏡』は事件から約100年後に編まれた書物です。この記事では、『吾妻鏡』の記述を「〜と記している」という形で示し、記述の存在と出来事の認定を区別しました。
