伊能忠敬は、日本全国を測量した人物として知られています。
では、実際の資料では、どこまで測ったと書かれているのでしょうか。
今回読んだのは、1870年に刊行された『大日本沿海実測録』の首巻です。
そこに収められた「大日本沿海実測全図序」と凡例を読むと、かなり興味深い表現が並んでいました。
序には、
「大凡六十八州の駅路沿海から四周の島嶼に至るまで遺漏あることなし」
という趣旨の記述があります。
一方で同じ序には、
各国の郡邑や山川の細部までは、まだ十分に及んでいない
とも書かれています。
さらに凡例では、
「蝦夷地方の測量は未だ完備しない」
としています。
「遺漏なし」と「未完備」。
一見すると少し不思議です。
今回は、この三つの表現を無理に一つの結論へまとめず、『大日本沿海実測録』自身が測量の範囲をどう説明しているのかを順番に読んでみます。
- 今回読んだのは1870年刊『大日本沿海実測録』
- 序の末尾には「文政四年夏六月 伊能忠敬」
- 最初の測量は江戸から蝦夷へ
- 次に坂東、東海、北陸、奥羽へ
- 序は「六十八州の駅路沿海から四周の島嶼まで遺漏なし」と書く
- 間宮林蔵の測量で地図を補ったとも書かれている
- 「遺漏なし」の直後に「まだ及んでいない」と書かれる
- 序は「後人」による補正まで求めている
- 凡例を読むと、測り方も一様ではない
- 凡例では「蝦夷地方の測量は未だ完備せず」
- 「全国を測った」という一言では見えないもの
- 「どこまで測ったか」は、何を「測った」と考えるかで変わる
- 今回の資料から確認できたこと
- 伊能忠敬のすごさは「全部を一人で測った」ことだけではない
- 今回確認した資料について
- 参考資料
今回読んだのは1870年刊『大日本沿海実測録』
今回使用したのは、1870年に大学南校から刊行された『大日本沿海実測録』の首巻です。
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている刊本を確認しました。
この刊本は伊能忠敬の名を著者として掲げています。
首巻には「大日本沿海実測全図序」と題された文章があり、今回読んだのは、
文政四年夏六月の日付と「伊能忠敬」の名を持つ序
そして、それに続く、
「大日本沿海実測全図凡例」
です。
ただし、今回確認したのは1870年の刊本です。
文政4年当時の原文書を直接確認したわけではありません。
そのため以下では、
「1870年刊本に収められた序ではこう書かれている」
という形で読んでいきます。
序の末尾には「文政四年夏六月 伊能忠敬」
まず序の末尾です。
そこには、
「文政四年夏六月 伊能忠敬」
とあります。
つまり、この刊本では伊能忠敬の名を署した序として収録されています。
ここだけを見ると、忠敬本人が書いた文章なのかが気になるところです。
ただ、今回確認したのは1870年刊本に印刷された文章だけです。
この序がどのような経緯で成立し、誰が実際に文章を起こしたのかまでは調べていません。
そこでこの記事では、あくまで、
「伊能忠敬の名を署する序」
として扱います。
最初の測量は江戸から蝦夷へ
序は、測量の始まりから説明しています。
寛政12年の夏、伊能忠敬の師である高橋至時の建白により、忠敬に地度を測らせたと記しています。
そして当時、蝦夷地の開拓に関する動きがあったため、蝦夷まで続けて測ったとしています。
忠敬は江戸を出発し、奥州を経て蝦夷へ向かいました。
序では、その道中について、
駅路の里程
東沿海
極高度
を細かく測って帰ったと説明しています。
現在の私たちは伊能測量を「全国測量」と一言でまとめがちですが、この序では最初から全国を一気に測ったようには書かれていません。
まず江戸から奥州を通り、蝦夷へ向かう測量があった。
そこから次の測量へ進んでいきます。
次に坂東、東海、北陸、奥羽へ
序によれば、その翌年には坂東海辺を測量する命令が出されました。
さらに、それ以降も毎年のように、
東海
北陸
奥羽の海辺
を測定したとしています。
こうして読むと、忠敬の測量が何度も旅を繰り返しながら広がっていったことが分かります。
そして序は、さらに西へ進みます。
西国沿海測量の命
が出され、測量に関わる役人も追加されたとしています。
それまでよりも測量器具を精密にし、詳しい観測を行い、
「十年で卒業した」
と記しています。
ここでいう「卒業」が具体的に何を意味するかについて、この記事では言い換えません。
重要なのは、この序が測量を、
蝦夷方面
↓
坂東
↓
東海・北陸・奥羽
↓
西国沿海
という流れで説明していることです。
序は「六十八州の駅路沿海から四周の島嶼まで遺漏なし」と書く
その後、かなり強い表現が出てきます。
序は、それまでに提出した成果を合わせて見ると、
大凡六十八州の駅路沿海から四周の島嶼に至るまで、遺漏あることなし
という趣旨を述べています。
「遺漏あることなし」。
これだけ読むと、
「日本全国を隅々まで完全に測った」
という意味に受け取りたくなります。
しかし、少し待つ必要があります。
序が言っているのは、
「六十八州の駅路沿海」から「四周の島嶼」まで
という範囲です。
そして、このすぐ後には、それとは違う説明が出てきます。
つまり「遺漏なし」という一文だけを切り取って、測量のすべてが完全だったと理解すると、後の文章と噛み合わなくなります。
間宮林蔵の測量で地図を補ったとも書かれている
同じ箇所で序は、
間宮林蔵の測を取って地図を補った
とも記しています。
ここはかなり重要です。
『大日本沿海実測録』自身が、地図のすべてを伊能忠敬自身の測量だけで構成したと説明しているわけではありません。
少なくとも序では、間宮林蔵による測量を利用して補った部分があるとしています。
では、間宮林蔵は具体的にどこを測ったのか。
どの範囲が忠敬の測量で、どこからが間宮の成果なのか。
そこまで知りたくなりますが、今回は間宮林蔵側の資料を確認していません。
したがって、
「この序は間宮林蔵の測量を取り入れたと書いている」
というところにとどめます。
「遺漏なし」の直後に「まだ及んでいない」と書かれる
そして、今回一番面白かったのがここです。
序は「遺漏あることなし」と述べた一方で、続いて、
忠敬が実際に通ったところについては詳しくしたが、
各国の郡邑・山川の細部に至っては、もとよりまだ及ぶ暇がなかった
という趣旨を記しています。
つまり同じ序の中に、
「遺漏あることなし」
と、
「未だ及ぶに遑なし」
が並んでいます。
一見すると矛盾しているように見えます。
しかし文章をそのまま読むと、二つは必ずしも同じ範囲について話しているとは限りません。
前者では、
駅路・沿海・島嶼
について述べています。
後者では、
各国の郡邑・山川の細部
に話が移っています。
少なくとも序の文章上では、
「沿岸や主要な道筋については広く覆った」
一方で、
「内陸の細部まで詳しく測ったわけではない」
という読み方もできそうです。
ただしこの記事では、それを確定的な解釈として押しつけることはしません。
まずは、同じ序が二つの表現を使い分けているという事実を押さえておきます。
序は「後人」による補正まで求めている
さらに序は、まだ及んでいない部分について、
後の人に命じて補正させれば、大成に至るだろう
という趣旨を述べています。
ここも、伊能忠敬の地図に対するイメージを考えるうえで興味深いところです。
現在では伊能図というと、
「ついに日本全土を正確に測り上げた完成品」
という印象を持ちやすいでしょう。
しかし、この序ではむしろ、
今後さらに補う余地がある
という書き方をしています。
もちろん、それだけで「未完成の地図だった」と決めることはできません。
ただ、序そのものは後人による補正を想定している。
ここは見逃しにくい部分です。
凡例を読むと、測り方も一様ではない
次に凡例を見てみます。
凡例は、地図上に朱線で示された経路について、
量程車や度縄を用いて測った
と説明しています。
ところが、一つだけ別の説明が付いています。
仙台から南部野辺地まで
については、
特に歩測
であると記されています。
ここも面白いところです。
伊能測量というと、精密な器具を使って一貫した方法で測ったような印象を持ちます。
しかし凡例には、区間によって測量方法が違うことが明記されています。
だからといって、
「歩測だから精度が低かった」
とまでは言えません。
今回確認できるのは、
この区間について凡例が歩測だと記している
ということです。
凡例では「蝦夷地方の測量は未だ完備せず」
そして凡例には、さらに重要な記述があります。
蝦夷地方の測量は未だ完備しないため、間宮林蔵の測を取って補った
という内容です。
ここでも間宮林蔵が登場します。
序では、江戸から奥州を経て蝦夷へ到り、沿海などを細測したと書かれていました。
ところが凡例では、
蝦夷地方の測量は未完備
としています。
これだけを見ると、
「蝦夷まで測ったのか、測っていないのか、どっちなのか」
と感じるかもしれません。
ただ、これも実際には同時に成り立つ可能性があります。
蝦夷へ行き測量は行った。
しかし、蝦夷地方全体について見ると測量は十分ではなかった。
そのため、間宮林蔵の成果で補った。
少なくとも、序と凡例を並べるとそう読む余地があります。
ただし、今回の記事ではそこまでを最終的な結論にはしません。
序と凡例がそれぞれどのように記しているかを確認するところまでにします。
「全国を測った」という一言では見えないもの
伊能忠敬については、
「日本全国を歩いて測量した」
と説明されることが多い人物です。
大筋では分かりやすい表現ですが、『大日本沿海実測録』の序と凡例を読むと、実際の記述はもう少し複雑です。
序は、
江戸から奥州を経て蝦夷へ向かったこと。
坂東海辺を測ったこと。
東海・北陸・奥羽の海辺を測ったこと。
西国沿海を測ったこと。
そして六十八州の駅路沿海から島嶼まで「遺漏なし」としています。
一方で、
各国の郡邑や山川の細部まではまだ及ばない。
蝦夷地方の測量もまだ完備していない。
間宮林蔵の測量で補った。
とも書かれています。
つまり、「全国を測量した」という一言の中にも、測った場所、十分でなかった場所、他者の成果で補われた場所があったことが、この一冊から見えてきます。
「どこまで測ったか」は、何を「測った」と考えるかで変わる
今回の序と凡例を読んでいると、
「伊能忠敬はどこまで測ったのか」
という問いそのものが、思ったより簡単ではないことが分かります。
海岸線を測ったのか。
主要な街道を測ったのか。
内陸の町や村、山や川の細部まで測ったのか。
蝦夷の一部へ行ったことをもって「蝦夷を測った」と言うのか。
後から間宮林蔵の成果を取り込んだ部分まで含めて「伊能図」と呼ぶのか。
何を基準にするかで、「どこまで」という答えは変わってきます。
だからこそ、『大日本沿海実測録』自身も、
広い範囲を覆ったこと
と、
細部までは及んでいないこと
を同時に書いているのかもしれません。
少なくとも今回読んだ文章は、単純な「完全測量」の物語だけではありませんでした。
今回の資料から確認できたこと
今回読んだ範囲をまとめると、次のようになります。
序は、伊能忠敬の測量について、
江戸から奥州を経て蝦夷へ向かったこと。
その後、坂東、東海、北陸、奥羽、西国沿海へと測量が広がったこと。
六十八州の駅路沿海から周囲の島嶼に至るまで「遺漏あることなし」とすること。
一方で、各国の郡邑や山川の細部にはまだ及んでいないこと。
さらに間宮林蔵の測量を利用して地図を補ったこと。
を記しています。
凡例では、
測量経路の多くについて量程車や度縄を用いたこと。
仙台から南部野辺地までは歩測とすること。
蝦夷地方の測量は未完備で、間宮林蔵の測で補ったこと。
が書かれています。
こうして並べると、
「伊能忠敬は全国を測った」
という有名な説明の中身が、少し具体的に見えてきます。
そして同時に、
全国を測ったことと、日本のあらゆる場所を細部まで測ったことは、同じではない
という点も見えてきます。
伊能忠敬のすごさは「全部を一人で測った」ことだけではない
伊能忠敬について調べると、どうしても「日本中を歩いた」という壮大さに目が向きます。
それ自体、非常に大きな仕事です。
しかし今回の序と凡例を読むと、別の姿も見えてきます。
測量は何度にも分けて行われています。
区間によって方法も違います。
測りきれなかったところがあることも記されています。
間宮林蔵の測量も取り込んでいます。
さらに、後世の人による補正まで想定されています。
つまり、『大日本沿海実測録』が描く実測事業は、
一人の人物が一度の旅で日本全土を完全に測った物語ではなく、長い時間をかけ、複数の方法と人の成果を積み重ねて作られた仕事
として見えてきます。
「伊能忠敬はどこまで測ったのか」。
今回読んだ資料から言えるのは、単に「日本全国」と答えるより、もう少し複雑だということです。
その複雑さこそ、実際の資料を読む面白さなのだと思います。
今回確認した資料について
この記事で直接確認したのは、1870年刊『大日本沿海実測録』首巻に収録された「大日本沿海実測全図序」と凡例です。
序は文政四年夏六月の日付と「伊能忠敬」の名を持つものを読みました。
ただし、文政4年当時の原文書そのものは確認していません。
また、首巻にあるもう一つの序、地図本体、『大日本沿海実測録』の本文、測量中の日記、間宮林蔵側の記録については今回確認していません。
したがって、どの地域を誰がどこまで測ったのかを、この記事だけで最終的に判定するものではありません。
参考資料
-
『大日本沿海実測録 首巻,1』大学南校、1870年
国立国会図書館デジタルコレクション pid 900253 -
「大日本沿海実測全図序」文政四年夏六月・伊能忠敬署名のもの(コマ10〜14)
-
「大日本沿海実測全図凡例」(コマ14〜17)


