京都・慈照寺の銀閣。
現在では誰もが「銀閣」と呼ぶ建物ですが、室町時代の記録を開くと、最初からその名前が出てくるわけではありません。
今回読んだ『蔭凉軒日録』の長享二年の記事に現れるのは、
「觀音殿」
という言葉です。
さらに、その建物に掲げる額をめぐる相談の中で、
「潮音閣」
という名前が登場します。
では、この「觀音殿」と「潮音閣」は、記録の中でどのように使われているのでしょうか。
今回は現在の銀閣から逆算するのではなく、『蔭凉軒日録』に実際に現れる言葉を順番に追ってみます。
今回読んだのは長享二年の『蔭凉軒日録』
今回中心に読んだのは、『蔭凉軒日録』の長享二年の記事です。
確認したのは、二月・九月・十月の条。
使用したのは1922年刊『大日本仏教全書』135に収録された本文です。
さらに二月三日と十月の記事については、1929年刊『大日本史料』第8編之14に引用された同じ部分とも突き合わせました。
句読点や字体など細かな違いを除けば、今回扱う部分については内容が一致していました。
もう一つ、『大日本史料』が参考資料として掲げている『慈照寺諸記』にも触れます。
ただし、こちらについては原本そのものを確認していません。
そのため、
『大日本史料』に引用された『慈照寺諸記』ではこう書かれている
という範囲で扱います。
二月三日――「此御所」の觀音殿について額を相談している
まず長享二年二月三日の条です。
ここでは相公が額について質問したと記されています。
比較の対象として出てくるのが、
花御所の觀音殿
と、
鹿苑寺の金堂
です。
花御所の觀音殿には外額と内額があり、鹿苑寺の金堂にも内外二つの額がある、と日録は説明します。
そのうえで話題になるのが、
「此御所」の觀音殿
です。
日録によれば、この觀音殿について、額を内に掲げるべきか外に掲げるべきか、もし一つだけ掲げるならどちらがよいか、と問われました。
それに対し、日録の筆者は、
一つなら外がよい
と答えたとしています。
現在の私たちは「銀閣」という名前を知っているので、つい最初からその言葉を探してしまいます。
しかし、この日の記録で建物について使われている言葉は「觀音殿」です。
ここは、当時の記録を読むうえでかなり重要なところだと思います。
「潮音閣」は建物名ではなく、まず額の候補として現れる
同じ二月三日の記事は、さらに続きます。
そこには、
「然者二重之內、一ニハ潮音閣ト可揭」
という文章があります。
ここで初めて、
「潮音閣」
という言葉が登場します。
ただ、文章の流れを見ると、この時点では「この建物の名前は潮音閣である」と説明しているわけではありません。
議論されているのは額です。
つまり「潮音閣」は、ここではまず、
掲げる額に書く名前の候補
として現れています。
現在から見ると「潮音閣」という立派な建物名に見えますが、日録のこの場面はむしろ、
「どの文字を額に掲げようか」
と相談している途中なのです。
この違いは面白いところです。
「二重之內」とは書いてあるが、無理に現代語へ置き換えない
同じ文章には、
「二重之內」
という言葉もあります。
現代の銀閣を知っていると、
「二階建ての二階部分のことだろう」
とすぐ説明したくなります。
ただ、今回の記事ではそこまで言い換えません。
日録が実際に使っている語は「二重」です。
歴史資料を読むとき、現在の建築用語や現在知られている建物の構造を先に当てはめてしまうと、いつの間にか原文以上のことを書いてしまう場合があります。
そこで今回は、
「二重之內」と記されている
というところまでにしておきます。
九月には、觀音殿の額について複数の案が出ている
次に長享二年九月の記事です。
ここでも、觀音殿の額が話題になっています。
日録によれば、觀音殿の額と船歩の額について、以前に出来上がりを尋ねられていました。
それに対して筆者は、すでに候補を選んであり、いつでも進上できると答えたとしています。
そして、橫川和尚が東府の諸額の書立を持参します。
その書立に並んでいる名前を見ると、
觀音殿については、
「最上乘」
「妙高臺」
船歩の額については、
「泊船門」
「罷釣船」
橋亭については、
「彩虹橋」
「萬安橋」
とあります。
そして末尾には、
「各二」
とあります。
つまり、少なくともこの段階では、觀音殿の額について一つの名前だけが決まっていたわけではなく、複数の候補が検討されていたことが日録から見えてきます。
二月には「潮音閣」という案が出ていました。
九月の記事では「最上乘」「妙高臺」という別の候補も現れます。
こうして時間を追って読むと、建物に掲げる額をかなり真剣に検討していたことが分かります。
十月――「潮音閣可然」
そして長享二年十月の記事です。
晩に東府へ謁したという記述に続いて、
「觀音殿二重之額、潮音閣可然被思食云々」
とあります。
意味の取り方には慎重である必要がありますが、少なくとも、
觀音殿の二重の額について、「潮音閣」がよいと思し召された
という内容です。
二月の段階では候補として出ていた「潮音閣」が、十月の記事でも再び現れています。
ここまで読むと、
「では、この時点で正式名称が潮音閣に決定したのでは?」
と思いたくなります。
ただ、今回確認した文章に、
「正式名称を潮音閣と定める」
という形の宣言があるわけではありません。
そのためこの記事では、
額について「潮音閣」がよいとされた
というところまでにします。
この一線を越えないほうが、資料そのものには忠実です。
さらに「明年觀音殿可立」とある
同じ箇所には、さらに気になる文章があります。
「明年觀音殿可立」
です。
そして、
「然者額事閑按シテ可被付」
と続きます。
つまり記録上では、翌年の觀音殿に関することと、額についてよく考えて付けるべきことが並んでいます。
これを見ると、建設時期についていろいろ想像したくなります。
ただし、
「翌年に完成した」
「翌年から建築を始めた」
「翌年に現在の銀閣が建った」
といったところまでは、この一文だけでは判断できません。
今回確認できるのは、
長享二年の記録に「明年觀音殿可立」と書かれている
ということです。
ここまで『蔭凉軒日録』には「銀閣」が出てこない
ここで一度整理します。
今回読んだ長享二年の『蔭凉軒日録』では、
觀音殿
という語が繰り返し使われています。
そして額の候補として、
潮音閣
などの言葉が登場します。
一方、今回確認したこれらの記事では、
「銀閣」
という呼称を確認していません。
現在の建物が「銀閣」としてあまりにも有名なので、これは少し意外です。
だからといって、
「当時は銀閣という呼び方が存在しなかった」
とは言えません。
今回読んだのは長享二年の限られた記事だけだからです。
ただ、
今回確認した記録では、まず「觀音殿」として現れる
という点は押さえておけます。
では「銀閣」という語はどこに出てきたのか
今回確認した範囲で「銀閣」という言葉が現れたのは、『蔭凉軒日録』ではありません。
『大日本史料』が参考として掲げている『慈照寺諸記』です。
そこには、
「二重銀閣號潮音閣」
とあります。
ここでは、
「銀閣」
と、
「潮音閣」
が同じ短い文章の中に登場します。
現在の私たちが知る呼称にかなり近づいた印象を受けます。
しかし、ここで大きな問題があります。
今回、『慈照寺諸記』そのものを調査できていません。
いつ成立した記録なのか。
誰が書いたのか。
『大日本史料』がどの資料をもとにこの文章を掲載しているのか。
そうした点までは確認していません。
そのため、
『蔭凉軒日録』の「觀音殿」が、後になって「銀閣」と呼ばれた
という一本の歴史を、今回の記事だけで作ることはできません。
「觀音殿→潮音閣→銀閣」と単純につなげてよいのか
資料を並べると、どうしても次のようなストーリーを作りたくなります。
最初は「觀音殿」と呼ばれていた。
そこへ「潮音閣」という額が掲げられた。
その後「銀閣」と呼ばれるようになった。
確かに、とても分かりやすい流れです。
しかし、今回確認した資料だけでは、そこまで連続した変化を証明できません。
『蔭凉軒日録』と『慈照寺諸記』では、資料の性格も成立した時期も同じとは限りません。
さらに今回の記事では、
「此御所」が具体的にどこなのか
「東府」が誰を指すのか
「相公」が誰なのか
という基本的な同定も行っていません。
現在の銀閣という建物を知っているからこそ、ついすべてをそこへつなげて読みたくなります。
しかし、一度現在の知識を脇へ置いて記録だけを見ると、もう少し慎重な姿が見えてきます。
室町時代には「名前を決める過程」そのものが記録されている
今回の記事で個人的に一番面白いと思ったのは、建物そのものより、
額の名前を相談している記録が残っていること
です。
観光地として建物を見ると、名称は最初からそこに付いていたように感じます。
しかし『蔭凉軒日録』には、
どこに額を掲げるか。
内と外のどちらにするか。
どの名前を使うか。
別の建物の額を参考にするか。
といった相談が残されています。
「潮音閣」という名前も、最初から当然のように存在していたわけではありません。
少なくとも今回読んだ記録の中では、いくつかの候補の中で検討される言葉の一つとして登場します。
現在残る文化財を見るだけでは分からない、「名前が決まる前の時間」が記録されている。
これが『蔭凉軒日録』を読む面白さだと思います。
今回確認できたことをまとめる
今回読んだ『蔭凉軒日録』長享二年の記事では、
「觀音殿」
という語が使われています。
二月三日の記事では、花御所の觀音殿や鹿苑寺金堂の額を参考に、「此御所」の觀音殿にどのように額を掲げるかが相談されています。
その中で、
「潮音閣」
という言葉が額の候補として現れます。
九月には觀音殿の額として「最上乘」「妙高臺」などの候補も記されています。
そして十月には、
「觀音殿二重之額、潮音閣可然」
という趣旨の記事があります。
さらに、
「明年觀音殿可立」
という記述もあります。
一方、『大日本史料』が引用する『慈照寺諸記』には、
「二重銀閣號潮音閣」
とあります。
今回確認できた言葉を並べれば、
觀音殿
潮音閣
銀閣
の三つが現れます。
ただし、これをそのまま名称の変化の順番として結びつけることはできません。
今回分かるのは、それぞれの記録に、それぞれこの言葉が書かれているというところまでです。
「銀閣」という名前から離れて史料を読んでみる
現在、慈照寺を訪れれば誰もが「銀閣」と呼びます。
だからこそ昔の記録を読むときにも、「銀閣」という言葉を探したくなります。
しかし長享二年の『蔭凉軒日録』を読んでみると、そこに現れるのは「觀音殿」です。
そして私たちが現在「建物名」のように感じる「潮音閣」も、記録の中ではまず額をめぐる相談の文脈に登場します。
歴史資料を読む面白さは、現在当たり前だと思っている呼び名をいったん外して、その時代の人が実際にどんな言葉を使っていたのかを見ることにもあります。
慈照寺銀閣も、
「昔からずっと銀閣だった」
と考えるのではなく、
「この記録では何と呼んでいるのだろう」
と確認してみる。
そこから、建物の歴史が少し違った姿で見えてきます。
今回確認した資料について
この記事では、1922年刊『大日本仏教全書』135所収の『蔭凉軒日録』から、長享二年二月・九月・十月の記事を確認しました。
二月三日と十月の箇所については、『大日本史料』第8編之14に引用された本文とも対校しています。
『慈照寺諸記』については、『大日本史料』に参考資料として掲載された文章のみ確認しました。原本や成立年代、作成者については未確認です。
また、現在の銀閣そのもの、『蔭凉軒日録』の原本、長享二年以外の記事については今回調べていません。
そのため、「觀音殿」「潮音閣」「銀閣」という三つの語が、いつ、どのような経緯で現在の建物の呼称として結びついたのかについては判断していません。
参考資料
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『大日本仏教全書 135』仏書刊行会、1922年
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『蔭凉軒日録』長享二年二月の条(コマ65)
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同年九月の条(コマ147)
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同年十月の条(コマ150)
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『大日本史料 第8編之14』東京帝国大学文学部史料編纂所、1929年
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『蔭凉軒日録』対校箇所(コマ132)
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参考として掲げられた『慈照寺諸記』(コマ151)
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