墾田永年私財法|『続日本紀』の詔には何が書かれているのか
「墾田永年私財法」と聞くと、
新しく開墾した土地を、永久に自分のものにできるようにした法
と覚えている人が多いと思います。
確かに、『続日本紀』の天平十五年五月乙丑条には、墾田を永年にわたって私財とする趣旨の詔が載っています。
しかし実際にその詔を読んでみると、話はそこで終わりません。
同じ文章の中には、
身分ごとに所有できる面積の上限
が細かく定められています。
さらに、上限を超えて持っている土地については、
「公に還せ」
とする規定まであります。
つまり、単純に「開墾した土地を無制限に私有できるようになった」という内容ではありません。
今回は『続日本紀』を読みながら、一般に「墾田永年私財法」と呼ばれる天平十五年の詔に、実際には何が書かれているのかを見ていきます。
その前に、養老七年の「三世一身」の規定がある
天平十五年の詔を読む前に、一つ前の制度を確認しておく必要があります。
『続日本紀』の養老七年四月辛亥条です。
ここには太政官からの奏が記されています。
内容は、新たに溝や池を造って開墾した場合には、その土地を三世まで伝えることを認める。
一方、既存の溝や池を利用して開墾した場合には、開墾した本人の一身に限って認める、というものです。
これがいわゆる「三世一身法」として知られる規定です。
ただし、史料上の形には少し注意が必要です。
この養老七年の記事は「詔」として載っているのではありません。
太政官がこのようにしたいと奏上し、それが認められた、という形で『続日本紀』に記録されています。
こうした違いは、教科書だけを読んでいると意外と見えにくい部分です。
天平十五年の詔は、まず養老七年の規定を振り返る
天平十五年五月乙丑条に入ります。
この詔はいきなり「土地を永久に私有してよい」と宣言するのではありません。
まず、養老七年の規定を振り返ります。
それまでの墾田は、一定の期限が過ぎれば、制度に従って収公されることになっていた。
そのことを確認したうえで、新しい方針を示します。
今後は、
「私財」とすることを認める。
そして、
「三世一身」を論じず、永年にわたって取り上げない。
これが、現在「墾田永年私財法」と呼ばれている部分です。
期限付きだった墾田の保有を、期限なしに変更したわけです。
ここだけ読めば、「開墾すれば永久に自分の土地」という理解になるのも自然です。
ところが、詔はまだ続きます。
「永年私財」の直後に、所有できる面積の上限が出てくる
今回実際に読んでみて、特に重要だと感じたのがここです。
詔は墾田を永年の私財とするとした直後に、身分別の面積上限を並べています。
親王の一品および一位は五百町。
二品および二位は四百町。
三品および四品は三百町。
四位は二百町。
五位は百町。
六位以下八位以上は五十町。
初位以下から庶人までは十町。
さらに郡司については、
大領・少領が三十町。
主政・主帳が十町。
とされています。
つまり、
「永年の私財にしてよい」
と、
「ただし持てる面積には限度がある」
という二つの規定が、同じ詔の中に並んでいるのです。
「墾田永年私財法」という名前だけでは、この部分はかなり見えにくくなっています。
上限を超えていた土地はどうするのか
では、すでに上限以上の土地を持っていた場合はどうなるのでしょうか。
詔はそこにも触れています。
先に給わっていた土地が今回定めた限度を超えている場合には、
超過分を公に還す
としています。
ここまで読むと、天平十五年の詔が単なる土地私有の自由化ではなかったことがよく分かります。
永久保有を認めながら、その一方で身分に応じた上限を設け、超えた部分は公へ返す。
制度としてはかなり細かく線を引こうとしています。
国司には別の規定が置かれている
さらに、国司については別の扱いがあります。
今回確認した刊本では、
国司が任にある日の墾田については、前の格による
という趣旨の記述があります。
つまり、天平十五年の新しい規定が、すべての立場の人にまったく同じように適用される形ではありません。
国司については、在任中の墾田を別扱いにしています。
ただし、この部分は今回確認した二種類の刊本のうち、一方では文字が崩れていました。
そのため、この記事では細かな語句の解釈には踏み込みません。
確認できる範囲では、国司の在任中の墾田について、前の格を適用する規定が置かれているというところまでです。
なぜ永久保有を認めたのか
詔は制度を変える理由についても説明しています。
従来は、開墾しても一定期間が過ぎれば土地を収公される。
そのため農民がやる気を失い、せっかく開いた土地が再び荒れてしまう。
そのような趣旨が述べられています。
つまり、この詔自身の説明に従えば、
「開墾しても最後には取り上げられるなら、誰も積極的に土地を開こうとしない」
という問題意識があったことになります。
そこで永年の私財として認めることで、開墾を促そうとした。
少なくとも、詔自身はそのような理屈で制度変更を説明しています。
ただし、これはあくまで詔が掲げている理由です。
実際の政策目的がそれだけだったのか、政治的・社会的に別の狙いがあったのかについては、別の研究が必要になります。
永年私財になったあとも、規制は続いている
墾田永年私財法という名前だけを見ると、
「天平十五年以降は、土地を自由にどんどん私有できるようになった」
という印象を持つかもしれません。
しかし、その後の『続日本紀』を読むと、そう単純でもありません。
墾田をめぐる規制が、その後も繰り返し登場します。
天平十八年――寺が百姓の墾田を買うことを禁止
天平十八年五月庚申条では、
諸寺が百姓の墾田や園地を競って買い、永く寺地とすること
を禁じたと記されています。
永年私財が認められたあと、その土地が寺院へ集まっていく動きがあったことをうかがわせる規定です。
ただし、この命令が各地でどこまで徹底されたのかについては、この条だけでは分かりません。
確認できるのは、そうした売買を禁止する命令が記録されているということです。
天平勝宝元年――寺院にも墾田の限度を設定
さらに天平勝宝元年の条では、寺院が持つ墾田についても上限が設定されています。
たとえば、
大安寺・薬師寺・興福寺などは一千町。
大倭国国分金光明寺は四千町。
元興寺は二千町。
弘福寺・法隆寺・四天王寺などは五百町。
諸国法華寺は四百町。
その他の定額寺は百町。
といった具合です。
天平十五年の詔では人の身分ごとの上限が記されていましたが、その後には寺院についても個別に上限を設定する規定が現れるわけです。
土地の私有を認める一方で、土地が際限なく集中することをそのまま放置していたわけではなかったことが、この流れから見えてきます。
天平神護元年には、今度は「加墾するな」と命じている
さらに興味深いのが、天平神護元年三月丙申条です。
ここには勅が載っています。
その勅は、天平十五年の規定について、
今より後は私財とすることを認め、三世一身を論じない
という趣旨で振り返ります。
ところが、その結果については厳しい評価をしています。
天下の人々が競って墾田を行うようになった。
勢力のある家が百姓を使役し、貧しい百姓は自分の生活を営む暇もなくなっている。
そこで、
今後は新たに墾田を増やすことを禁止する
と命じています。
つまり、天平十五年には開墾を促す方向へ制度を変えたのに、その後には行き過ぎを抑える命令が出ているのです。
ここまで時系列で読むと、政策が一度決まって終わったのではなく、社会の動きを見ながら修正されていったことが分かります。
「墾田永年私財法=荘園の始まり」と一言で終わらせない
墾田永年私財法は、日本史では荘園の発達と結びつけて説明されることが多い制度です。
それは歴史の大きな流れを理解するうえでは重要でしょう。
ただ、『続日本紀』そのものを読むと、もっと細かな制度の姿が見えてきます。
天平十五年の詔では、
墾田を永年の私財として認める。
しかし同時に、
身分別の面積上限を設定する。
超過した土地は公へ返す。
国司の在任中の墾田は別扱いとする。
という条件も付いています。
さらに、その後には寺院による土地取得を禁じる命令や、寺院ごとの上限設定、新たな開墾そのものを禁じる命令まで出ています。
こうして見ると、
「土地の私有を認めたから、そのまま私有地が増え続けた」
という一直線の物語ではありません。
土地を開かせたい。
しかし集中しすぎるのも困る。
その間で制度を何度も調整している様子が見えてきます。
「永年私財」という言葉だけでは見えてこないもの
今回、実際に詔を読んでみて一番印象に残ったのは、
「永年私財」という有名な部分と、所有上限の規定が同じ文章に入っていること
でした。
歴史用語は、複雑な制度を覚えやすくするために便利です。
しかし、その名前だけ覚えていると、どうしても一部分だけが強調されます。
「墾田永年私財法」なら、
「開墾した土地を永久に自分のものにできるようになった」
という部分です。
ところが実際の詔を読むと、
「誰でも好きなだけ土地を持てる」
とは書かれていません。
むしろ、
永年保有を認める一方で、誰がどこまで持てるのかを細かく決めている。
この二つをセットで見るほうが、天平十五年の制度に近い姿になります。
今回確認したことをまとめる
今回読んだ『続日本紀』では、養老七年にまず「三世」「一身」という期限付きの墾田保有が記されています。
天平十五年の詔はそれを振り返ったうえで、
今後は三世一身を論じず、墾田を永年の私財として認める
という方針を示しました。
しかし同じ詔の中には、
身分別の面積上限
が定められています。
上限を超えた土地は、
公に還す
としています。
国司の在任中の墾田については、別の扱いも置かれています。
そして、その後の『続日本紀』には、
寺による百姓の墾田取得の禁止。
寺院ごとの墾田上限。
新たな墾田そのものの禁止。
といった規定が続いています。
つまり「墾田永年私財法」は、
土地の永久私有を認めた法
という説明だけでは、その全体像を十分に表せません。
少なくとも今回読んだ詔には、
「永年私財」と「所有できる土地の上限」が同時に書かれていました。
教科書の一行から一歩進んで原文を読むと、そこがかなり面白いところです。
今回確認した資料について
この記事では、『続日本紀』の刊本を確認しました。
伴信友校の1883年刊本と、立野春節校の1900年刊本を一部突き合わせています。
文字が崩れている部分や、刊本間で読みが一致しない部分については、無理に逐語引用していません。
また、今回扱ったのは『続日本紀』に記録された規定です。
天平十五年以降の班田が実際にどう行われたのか、開墾禁止がその後いつまで続いたのか、各地でどれだけ墾田が増えたのかについては確認していません。
研究論文についても、今回は扱っていません。
したがって、この記事では制度の長期的な影響を判定するのではなく、『続日本紀』に何が記されているかを中心に読んでいます。
参考資料
-
『続日本紀』巻第1-9 菅野真道ほか著・伴信友校、1883年
-
『続日本紀』巻第10-19 同上、1883年
-
『続日本紀』巻第20-28 同上、1883年
-
『続日本紀』巻9・10 菅野真道ほか著・立野春節校、1900年
-
『続日本紀』巻15・16 同上、1900年
-
『続日本紀』巻17・18 同上、1900年


