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真田幸村と信繁|史料ではどちらの名前が使われているのか

『高野山文書』の刊本に収められた「眞田信繁書狀」には、署名として「信繁」とあります。『翁草』の校訂本は、諸記録に「幸村」と記す、と述べています。同じ箇所で『翁草』は「信仍」という形も紹介しています。今回読んだ資料ごとに、どの名がどう現れるかを並べます。
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平将門|一次史料が記すことと、丸山忠綱が1953年に論じたこと

『日本紀略』は天慶二年から三年にかけての将門をめぐる動きを記し、『将門記』は将門が自ら「新皇」と号したと記しています。一方、丸山忠綱は1953年の論文で、神田明神と平将門の結びつきをどう考えるかを論じました。一次史料が記していることと、この論文が説明していることを分けて読みます。
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伊能忠敬|『大日本沿海実測録』の序と凡例は、どこまで測ったと記しているか

1870年に刊行された『大日本沿海実測録』の首巻には、伊能忠敬の名を署する序と、凡例が収められています。序は、測った地域を順に挙げたうえで「大凡六十八州の駅路沿海から四周の島嶼に至るまで遺漏あることなし」としています。同じ序は続けて、各国の郡邑・山川の細に至っては固より未だ及ぶに遑がない、とも記します。凡例は、蝦夷地方の測量は未だ完備しない、としています。一冊のなかに置かれたこれらの記述を、そのまま読みます。
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藤原道長「この世をば」|歌を書きとめたのは誰か

「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の…」の文句を書きとめたのは道長自身ではなく、同じ席にいた藤原実資でした。寛仁二年十月十六日について、『御堂関白記』と『小右記』にそれぞれ何が書かれているのかを、二つの刊本から追います。
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源義経と頼朝の決裂|『玉葉』『吾妻鏡』はどう記したか

文治元年十月、『玉葉』に写された宣旨では、追討される側に頼朝の名があり、義経は追討する側に置かれていました。約一か月後には向きが逆転します。そして後代に編まれた『吾妻鏡』は、この時期を別の言葉で振り返ります。
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織田信長と比叡山焼き討ち|史料はどこまで焼けたと記しているのか

元亀二年九月十二日。同じ一日について、『史料綜覧』の綱文は「其堂塔を焚く」の一行、『信長公記』は「一字も残らず」「数千の屍」と数百字。どこまで焼けたのかを、確かめられた範囲と確かめられない範囲に分けて追います。