元亀二年九月十二日。
織田信長による比叡山焼き討ちの日です。
この事件については、
「比叡山を焼き尽くした」
「僧侶だけでなく女性や子どもまで殺した」
といった説明を目にすることがあります。
では、実際の史料には何と書かれているのでしょうか。
今回確認した資料を並べると、同じ一日についてかなり印象の違う文章が残っています。
東京大学史料編纂所の『史料綜覧』は、
信長が延暦寺を攻め、その堂塔を焼いた
と簡潔にまとめています。
一方、太田牛一の『信長公記』は、
根本中堂・三王廿一社をはじめ、霊仏・霊社・僧坊・経巻まで「一字も残らず」焼き払い、「数千の屍」があった
と描写します。
同じ事件なのに、一方は一行。
もう一方は非常に具体的です。
では、実際には比叡山のどこまでが焼けたのでしょうか。
先に結論を書けば、今回確認した資料だけではそこまで確定できませんでした。
ただし、
史料がどこまで書いているのか。
何がまだ確かめられていないのか。
そこは整理できます。
- 『史料綜覧』は「堂塔を焚く」とだけ書く
- 一行の裏には、三十点を超える史料名が並ぶ
- 『信長公記』は「一字も残らず」と書く
- 人々については、さらに激しい描写が続く
- 『信長公記』は延暦寺側をどう描いているか
- 実は一年前の記事に「焼き払うべし」が出てくる
- ただし「一年間計画していた」とは言えない
- 「数千人」は、本当に数千人だったのか
- 文字史料だけで分からないなら、発掘で分かるのか
- 三地点を調べただけでは、比叡山全体は分からない
- 「焼土層がなかった」とは書けない
- 比叡山全体でどこまで調査されているのかも分からない
- 比叡山は1571年以前にも何度も焼けていた
- 「焼けた痕跡がある=1571年」とも限らない
- では、実際にどこまで焼けたのか
- 争点は「焼き討ちはあったのか」ではなく「どの規模だったのか」
- 一行の記録と、数百字の記録
- 今回確認できたこと
- 今回確認した資料について
- 参考資料
『史料綜覧』は「堂塔を焚く」とだけ書く
まず『史料綜覧』巻10を見ます。
元亀二年九月十二日の綱文では、信長が近江常楽寺を出発し、瀬田へ向かい、山岡景猶の城に入ったことが記されています。
そして同じ日に、
延暦寺衆徒が朝倉義景に味方していることを憎み、これを攻め、その堂塔を焼いた
という内容が置かれています。
翌日には京都へ入ったと続きます。
焼き討ちについての本文は、かなり簡潔です。
「堂塔を焚く」。
ここには、
どの建物が焼けたのか。
何棟焼けたのか。
どこまで火が広がったのか。
何人が亡くなったのか。
といった情報はありません。
ただし、この短さを、
「被害は小さかった」
という意味に取ることはできません。
『史料綜覧』の綱文は、もともと出来事を簡潔にまとめた見出しだからです。
一行の裏には、三十点を超える史料名が並ぶ
むしろ目を引くのは、その下です。
この一日の綱文の典拠として、三十点を超える史料名が並んでいます。
たとえば、
『公卿補任』
『御湯殿上日記』
『言継卿記』
『東寺執行日記』
『多聞院日記』
『尋憲記』
『天台座主記』
『原本信長記』
などです。
さらに、
『日吉兵乱火災之記』
『日吉焼失兵乱記』
『日吉社極秘密記』
という、日吉の火災・兵乱を題名に含む史料も挙げられています。
また〔参考〕として、
『甫庵信長記』
『佐久間軍記』
『武徳編年集成』
『日本耶蘇会年報』
なども別枠で掲載されています。
つまり史料編纂所は、綱文そのものは一行に圧縮しながら、その背後に多数の史料を置いています。
ただし、ここで大きな限界があります。
今回の記事では、その三十点あまりを個別には読めていません。
ですから、
「多くの史料があるから『信長公記』の描写は裏づけられている」
とも、
「別の史料には違うことが書いてある」
とも言えません。
確認できたのは、
『史料綜覧』がこれだけの史料を典拠として挙げている
というところまでです。
『信長公記』は「一字も残らず」と書く
次に『信長公記』です。
今回確認したのは、1881年刊の本文です。
こちらは『史料綜覧』とは対照的に、焼き討ちをかなり詳しく描いています。
元亀二年九月十二日の記事では、
根本中堂
三王廿一社
をはじめ、
霊仏
霊社
僧坊
経巻
まで、
「一字も残らず、一時に雲霞の如く焼き払った」
という内容になっています。
「一字も残らず」。
非常に強い表現です。
これだけ読むと、比叡山全域が完全に焼失したような印象を受けます。
ただし、この文章はあくまで『信長公記』がそう描写しているということです。
この一文だけから、現在の地図上で焼失範囲を線引きすることはできません。
人々については、さらに激しい描写が続く
『信長公記』が詳しいのは、建物だけではありません。
人々についても記述があります。
信長の兵が四方から攻め上り、
僧俗・児童・智者・上人
の首を一人ずつ斬り、信長の前へ持っていった。
さらに、
高僧・貴僧・有智の僧。
女性。
子ども。
なども多数捕らえられ、命乞いをしたものの許されず、首を打ち落とされたという内容です。
そして最後に、
「数千の屍、算を乱す」
と記します。
今回の記事でよく知られている「大量殺害」のイメージは、少なくとも『信長公記』本文にはかなり明瞭に書かれています。
ただし、
本当に数千人だったのか
という問題は別です。
『信長公記』は延暦寺側をどう描いているか
もう一つ見ておくべきなのが、『信長公記』の延暦寺側についての書き方です。
本文では、山門山下の僧衆について、
王城鎮護の立場にありながら、
出家としての行いに拘らず、
魚や鳥を食べ、
金銀の賄いに耽り、
浅井・朝倉に味方して勝手な振る舞いをしていた、
という趣旨で描いています。
これは重要です。
なぜなら焼き討ちの場面だけでなく、焼かれる側がどのような存在として読者に提示されているかも文章の印象を左右するからです。
ただし、
「延暦寺の僧侶は実際に全員そうだった」
と確認できる資料ではありません。
この記事で言えるのは、
『信長公記』は延暦寺側をこのように描写している
というところまでです。
実は一年前の記事に「焼き払うべし」が出てくる
『信長公記』を一年前まで戻ると、さらに興味深い記述があります。
元亀元年九月の記事です。
そこでは、山門の衆徒十人ほどを呼び、
信長へ忠節を尽くすのであれば、信長の支配地にある山門領を元通り返す。
出家の身でどちらかへ味方できないなら、中立でいてもよい。
という趣旨を伝えたと記されています。
そして、その二つに背いた場合には、
根本中堂・三王廿一社をはじめ焼き払う
という上意があったとしています。
つまり『信長公記』の文章上では、
元亀元年九月に「背けば焼き払う」という記事があり、翌年九月に実際の焼き討ちの記事が置かれている
わけです。
一年前と一年後の記事が、内容としてつながって見えます。
ただし「一年間計画していた」とは言えない
ここで分かりやすい物語を作りたくなります。
「信長は一年前から焼き討ちを計画していた」
あるいは、
「太田牛一は、警告に従わなかったので焼いたという正当化の物語を作った」
といった説明です。
しかし、今回はそこまでは進みません。
その構成について検討した研究を確認していないからです。
今回言えるのは、
『信長公記』の本文では、一年前に焼却を警告する記事が置かれ、翌年に焼き討ちの記事が続いている
ということだけです。
そこから作者の意図や信長の一年間の計画まで確定するには、さらに別の材料が必要です。
「数千人」は、本当に数千人だったのか
比叡山焼き討ちで最も気になる数字の一つが、
「数千」
です。
『信長公記』には確かにそうあります。
しかしこの記事では、
死者数を数千人と確定しません。
理由は単純です。
今回、「数千」という数字を独立して確認できる別史料や、死者数を推計した研究まで確認できていないからです。
では、『信長公記』が誇張しているのでしょうか。
それも今回の記事からは言えません。
誇張と判断するには、比較材料が必要だからです。
したがって今回確実に言えるのは、
「『信長公記』は『数千の屍』と記している」
ということだけです。
史料に書かれている数字と、実際の人数は分けて考える必要があります。
文字史料だけで分からないなら、発掘で分かるのか
ここまで来ると、次に考えたくなるのは考古学です。
『信長公記』の表現がどこまで実態を反映しているのか。
焼失範囲を知るには、発掘調査で焼土や焼けた建物跡を確認すればよいのではないか。
そこで今回、発掘調査についても探しました。
確認できたのが、
延暦寺法華総持院跡
の発掘調査です。
滋賀県文化財保護協会の抄報によれば、昭和53年、1978年1月23日から3月20日にかけて、大津市の延暦寺法華総持院跡で発掘が行われています。
調査対象は阿弥陀堂周辺の三地点でした。
三地点を調べただけでは、比叡山全体は分からない
比叡山延暦寺は広大です。
東塔。
西塔。
横川。
大きく分けても複数の地域があります。
その中で今回確認できた発掘は、法華総持院跡の三地点です。
つまり、
この調査だけをもって、比叡山全体の焼失状況を語ることはできません。
さらに今回は、肝心の発掘報告本文を十分に読むことができませんでした。
取得できた抄報は紙面画像で、文字認識がかなり崩れていました。
そのため、
元亀二年の焼き討ちに対応する焼土層が確認されたのか
という最も知りたい部分まで、安全に読み取ることができませんでした。
「焼土層がなかった」とは書けない
ここはかなり重要です。
発掘について検索すると、
「比叡山では焼土がほとんど確認されていない」
といった説明を見かけることがあります。
しかし今回の記事では、それを採用しません。
理由は、
今回確認した発掘資料から、その事実を自分で確認できなかったからです。
読めなかったことと、存在しなかったことは別です。
したがって、
「焼土層は無かった」
「焼けた痕跡は少なかった」
とは書きません。
今回言えるのは、
法華総持院跡で発掘調査が行われているが、今回確認できた資料から焼土層の有無までは読めなかった
ということです。
比叡山全体でどこまで調査されているのかも分からない
もう一つ問題があります。
仮に一地点で焼土がなかったとしても、
それを比叡山全体へ広げることはできません。
どこが発掘済みなのか。
どこが未調査なのか。
元亀二年の地層がどの地点で確認されているのか。
その一覧まで今回は到達できませんでした。
1990年刊『延暦寺防災施設工事・発掘調査報告書』の存在は確認できましたが、本文は確認できていません。
したがって、
考古学的には比叡山焼き討ちの規模が分かっている
とも、
考古学によって『信長公記』が否定されている
とも、今回の記事では言えません。
比叡山は1571年以前にも何度も焼けていた
ただ、法華総持院跡の抄報から一つ興味深いことは確認できました。
法華総持院は、記録上、何度も火災に遭っています。
挙げられているのは、
天慶四年。
天禄元年。
正暦五年。
延久二年。
大治三年。
元久二年。
建暦元年。
元亨三年。
永享七年。
合計九回です。
最後の永享七年は1435年。
つまり、
1571年の信長による焼き討ちより前から、法華総持院は繰り返し火災を経験していた
ことになります。
これは発掘結果を読む際にも無視できない問題です。
仮に焼けた痕跡があったとしても、
それがいつの火災なのか
を区別する必要があるからです。
「焼けた痕跡がある=1571年」とも限らない
ここも重要です。
比叡山には元亀二年以前から多くの火災記録があります。
そのため、考古学的に焼土や焼けた建物跡が見つかったとしても、
それだけで、
「これは信長の焼き討ちの痕跡だ」
と即座に決められるわけではありません。
年代をどう判定するのか。
建物の再建履歴とどう対応させるのか。
そうした検討が必要になります。
今回の記事ではそこまでの報告書を読めていないため、判断しません。
では、実際にどこまで焼けたのか
ここまでを整理してみます。
『史料綜覧』は、
信長が延暦寺を攻め、堂塔を焼いた
とまとめています。
その綱文には三十点以上の史料名が典拠として並んでいます。
一方、『信長公記』は、
根本中堂・三王廿一社をはじめ、霊仏・霊社・僧坊・経巻を「一字も残らず」焼き払った
と記し、
「数千の屍」
とまで書いています。
さらに一年前の記事には、従わなければ根本中堂などを焼き払うという上意も記されています。
考古学では法華総持院跡などの発掘が行われています。
しかし今回確認できた資料だけでは、元亀二年の焼土層がどこまで確認されているのかを判断できませんでした。
したがって、
「比叡山全域が完全に焼失した」
とも、
「実際にはほとんど焼けなかった」
とも書けません。
今回の資料から確実に言える範囲を超えるからです。
争点は「焼き討ちはあったのか」ではなく「どの規模だったのか」
今回資料を読んでみて、少なくとも一つ整理できることがあります。
信長による延暦寺への攻撃と堂塔の焼却そのものについては、『史料綜覧』も事件として立てています。
つまり、
「比叡山焼き討ちは完全な創作だったのか」
という話を今回しているわけではありません。
分からないのは規模です。
どの建物まで焼けたのか。
比叡山のどの地域まで火が及んだのか。
何人が亡くなったのか。
『信長公記』の「一字も残らず」「数千」という表現をどこまで実数・実態として読めるのか。
そこについては、もっと多くの同時代史料と発掘成果を突き合わせる必要があります。
一行の記録と、数百字の記録
今回、最も印象に残ったのは、
同じ元亀二年九月十二日について、資料によって記述の密度がまったく違う
ことでした。
『史料綜覧』は一行ほど。
『信長公記』は数百字を使って、炎、殺害、人々の叫び、死体まで描いています。
しかし文章が長いから、必ずしもすべてが事実だとは限りません。
逆に文章が短いから、被害が小さかったという意味でもありません。
それぞれの資料が、
何のために書かれたものなのか。
いつ書かれたのか。
どの情報を残そうとしているのか。
そこを分けて読む必要があります。
今回確認できたこと
今回読んだ資料をまとめます。
『史料綜覧』は、元亀二年九月十二日に信長が延暦寺を攻め、その堂塔を焼いたと記しています。
その典拠として三十点を超える史料名を挙げていますが、今回は個々の史料までは確認していません。
『信長公記』は、
根本中堂・三王廿一社をはじめ、一字も残らず焼き払った
という趣旨で記し、
人々についても、
「数千の屍」
と表現しています。
また前年の記事には、山門側が要求に従わなければ根本中堂などを焼き払うという上意も記されています。
考古学については、1978年に延暦寺法華総持院跡の三地点で発掘調査が行われたことを確認できました。
一方、その資料から元亀二年に対応する焼土層の有無までは確認できませんでした。
さらに法華総持院には1571年以前にも複数回の火災記録があります。
したがって、
織田信長は比叡山のどこまでを焼いたのか。
今回の記事から確実に答えられるのは、
延暦寺を攻撃し堂塔を焼いたとする記録があり、『信長公記』は非常に広範な焼失と大量の死者を描いている
ところまでです。
その描写が実際の焼失範囲や死者数とどこまで一致するのか。
そこは、まだ確かめられていません。
今回確認した資料について
この記事では、『史料綜覧』巻10の元亀二年九月十二日条と、1881年刊『信長公記』の該当箇所を確認しました。
『史料綜覧』が典拠として挙げる三十点以上の史料については、今回は本文を確認していません。
発掘については、滋賀県文化財保護協会「大津市延暦寺法華総持院跡 発掘調査抄報」を確認しましたが、取得できた紙面から焼土層について安全に判読することができませんでした。
比叡山全体の発掘状況、元亀二年の焼失範囲、死者数を検討した現代の研究についても、今回は確認できていません。
そのためこの記事では、史料に何と書かれているかと、そこからはまだ判断できないことを分けて扱っています。
参考資料
-
『史料綜覧』巻10 東京大学史料編纂所、1938年
-
『信長公記』巻之上 太田牛一著・甫喜山景雄刊、1881年
-
「大津市延暦寺法華総持院跡 発掘調査抄報」滋賀県文化財保護協会


