忍者の歴史|戦国時代の史料に「忍び」はどう記されたのか

暮らし

天正二年六月七日。

織田信長が家臣の横井伊織に宛てた書状があります。

平山優が紹介するところによれば、その書状には、

昨夜、敵が城の二段まで忍び入ったところを、出合って追い崩した。まことに神妙である

という趣旨が記されています。

平山は、この「当城」を岐阜城としています。

つまり信長の居城に、夜のうちに敵が入り込んでいた。

しかも外周で見つかったのではなく、曲輪のかなり内側まで入っていたらしい。

この一通を見るだけでも、

「戦国時代に、敵地へ忍び込む人間は本当にいたのか」

という問いには、ある程度答えが見えてきます。

いたか、いなかったか。

そこよりも面白いのは、

彼らは何と呼ばれ、実際に何をしていたのか

ということです。

現在の私たちは、こうした人々をまとめて「忍者」と呼びます。

しかし、戦国時代の資料を見ていくと、出てくる言葉はもう少し複雑でした。

  1. 戦国時代の資料に「忍者」という言葉が普通に出てくるわけではない
  2. この記事でも「忍者」は便宜的に使う
  3. 今回、戦国期の原典そのものは読めていない
  4. 忍びは、城へ火を付けていた
  5. 肥後でも「忍が来て火を付けた」
  6. 兵糧を運ぶ部隊を襲う「かまり」
  7. 伏兵は「徒歩」で動いていた
  8. 守る側は「忍び」にどう備えていたのか
  9. 「寒いから、月夜でなければ忍びは来ない」
  10. 忍びの仕事は「情報収集」だけではなかった
  11. では「暗殺」は?
  12. 忍びは、軍隊の外にいる謎の集団だったのか
  13. 「忍者の正体は足軽」と言い切ってよいのか
  14. 伊賀・甲賀は最初から「忍者の里」だったのか
  15. 「伊賀者」「甲賀者」という説明は後世にも残った
  16. 戦国時代から約100年後、「忍術」が本になる
  17. 『万川集海』は六つの分野に忍術を整理した
  18. 実は『万川集海』にも複数の形がある
  19. そしてさらに後、私たちが知る「忍者像」が作られていく
  20. 服部半蔵は最初から「有名忍者」だったわけではない
  21. 服部半蔵が「忍術者」になっていくのは昭和
  22. 黒装束の忍者は、いつ定着したのか
  23. 昭和34年のマンガでは、服部半蔵が黒装束を着ている
  24. 戦国の「忍び」と、江戸の忍術書と、昭和の忍者像
    1. 戦国時代
    2. 約100年後
    3. さらに近代
  25. 「忍者は実在したのか」という問いだけでは足りない
  26. 今回確認できたこと
  27. 今回確認していないこと
  28. 参考資料

戦国時代の資料に「忍者」という言葉が普通に出てくるわけではない

今回、研究を通して確認できた戦国期の呼び名には、

忍び

透波

乱波

かまり

草

などがあります。

現在なら全部「忍者」とまとめてしまいそうな言葉です。

平山優は、こうした名称について、別々の特殊集団が存在していたというより、

与えられた任務によって呼び方が変わった

と整理しています。

たとえば潜伏する役割。

敵地へ入り込む役割。

夜間に攻撃する役割。

同じような人々でも、何をさせるかによって呼称が変わったという理解です。

一方、江戸後期の故実書『武家名目抄』になると、

関東では「乱波」、

甲斐より西では「透波」

と呼んだようだ、という説明も出てきます。

ただし、これは戦国時代そのものの記録ではありません。

後世の人が昔の武士社会を整理した説明です。

今回の記事では、この二つを混ぜないようにします。

この記事でも「忍者」は便宜的に使う

では、「忍者」という言葉は戦国時代に一般的だったのでしょうか。

今回そこまでは確認できませんでした。

藤田達生も論文の冒頭で、戦国大名が編成した「忍び」について、

以下では忍者と記す

と断ったうえで論じています。

つまり研究者自身も、当時の呼称と現代の分かりやすい呼び名を区別しています。

この記事でも同じです。

戦国期の資料を説明するときにはできるだけ「忍び」「透波」「かまり」など、資料に近い言葉を使います。

ただ、全体を説明するときには読みやすさのため「忍者」と書くことがあります。

今回、戦国期の原典そのものは読めていない

もう一つ大事な断りがあります。

この記事で紹介する戦国時代の史料は、原典を直接読んだものではありません。

確認したのは、平山優「戦国時代の忍びの実像」が紹介している内容です。

『家忠日記』については1897年刊本までは確認しましたが、今回必要な条をその中で特定できませんでした。

したがって、

「この史料にはこう書いてある」

ではなく、

「平山は、この史料にこう記されていると紹介している」

という形で読んでいきます。

忍者という題材は、後世の物語や創作が非常に多い分野です。

だからこそ、どの時代のどの資料を読んでいるのかを分けておいたほうが分かりやすいと思います。

忍びは、城へ火を付けていた

まず分かりやすい任務が放火です。

平山は、『高白斎記』天文二十二年九月十三日夜の条について、

尾見と新戸を忍が焼き、敵の首を討ち取った

という内容を紹介しています。

尾見は麻績城、新戸は荒砥城とされます。

信濃の出来事です。

城や拠点へ忍び込み、火を付ける。

現在の忍者イメージにも近い行動です。

しかし、同じような記録は信濃だけではありません。

肥後でも「忍が来て火を付けた」

平山は、『八代日記』永禄八年五月二十二日条についても紹介しています。

そこでは、

小河へ宇土から忍が来て火を付けたが、消し止めた

という趣旨が記されているといいます。

こちらは肥後です。

信濃と肥後。

かなり離れた地域の記録に、それぞれ「忍」による放火が現れます。

もちろん、この二例だけで全国の忍びが同じ仕事をしていたとは言えません。

ただ、

敵地へ潜入し、火を付ける役割が戦国期の史料に残っている

ところまでは確認できます。

兵糧を運ぶ部隊を襲う「かまり」

忍びの仕事は放火だけではありません。

平山は、『家忠日記』天正七年十一月七日条に、

滝堺へ「かまり」が越し、敵十四、五人と荷物二十駄を取った

という趣旨があると紹介しています。

平山の説明では、高天神城へ補給物資を運ぼうとしていた武田方を、徳川方の「かまり」が襲った事例です。

つまり、敵の城へこっそり入るだけではなく、

補給路を襲って兵糧輸送を断つ

という仕事もありました。

これはかなり軍事的です。

映画のような一人での潜入というより、戦争全体の中で敵の行動を妨害する部隊として見たほうが分かりやすくなります。

伏兵は「徒歩」で動いていた

どういう姿で活動したのかを考える手掛かりもあります。

平山は、天正十六年に真田信之が作成した八幡山番帳について注目しています。

そこでは、伏兵として編成された人々の武器が、

弓

槍

鉄砲

だけで、

馬に乗る者が一人もいない

としています。

平山はこれを、敵に察知されず行動する伏兵には徒歩での行動が求められていたことを示す材料として見ています。

現在の忍者像からすると当たり前に感じるかもしれません。

しかし重要なのは、後世のイメージではなく、軍事編成の記録から徒歩で行動する伏兵が確認できるという点です。

守る側は「忍び」にどう備えていたのか

忍びの実態を考えるうえで面白いのが、攻める側よりも守る側の記録です。

平山が紹介する天正十年十月十三日付の北条氏邦書状写には、

信濃から透波ども五百ほどが来て、その地を乗っ取るという注進があった

とされています。

そこで守備側に、かなり具体的な命令が出されます。

昼も夜も十分に警戒すること。

夜のうちに三度、

怪しい場所を突く。

石を転がす。

松明を投げる。

そして、人が潜んでいないか確認する。

「忍者対策」と聞くと何か特殊な仕掛けを想像しますが、記録に出てくるのは非常に現実的です。

暗い場所を突き、石を落とし、火を投げる。

要するに、

隠れている人間を物理的に見つける

ための警戒です。

「寒いから、月夜でなければ忍びは来ない」

同じ書状には、さらに印象的な一文があります。

平山によれば、

今は寒い時期なので、月夜でなければ忍びは来ないだろう

という趣旨が書かれています。

現在の忍者像では、どんな天候でも平然と動く超人的な存在として描かれがちです。

しかし、この記録で守る側は、

寒さ。

暗さ。

月明かり。

といった、ごく普通の条件を考えています。

だからといって、

「忍者は寒さに弱かった」

と一般化することはできません。

確認できるのは、この書状を書いた側が、天候や月明かりを忍びの行動条件として考えていたということです。

忍びの仕事は「情報収集」だけではなかった

忍者というと、情報を盗んで帰ってくるスパイを想像する人も多いでしょう。

もちろん、情報収集も重要だったようです。

しかし平山は、戦国期の忍びの任務をもっと広く整理しています。

情報収集。

夜討ち。

敵陣の攪乱。

分捕り。

乱取り。

兵糧輸送の遮断。

敵の背後の攪乱。

追撃戦。

城の乗っ取り。

などです。

そして、彼らの主戦場は夜襲だったとしています。

こうして見ると、「忍び」は単なる密偵ではありません。

偵察から破壊工作、奇襲、補給路攻撃までを担う軽装の特殊任務要員

のような姿が見えてきます。

では「暗殺」は?

ここで気になるのが暗殺です。

忍者といえば、敵の城へ入り込み、要人を暗殺する。

そんなイメージがあります。

江戸後期の『武家名目抄』では、忍について、

敵地へ潜入して状況を探る。

敵城へ入り火を放つ。

さらに、

刺客となって人を殺す

という説明まであります。

しかし、今回確認した戦国期の具体例の中には、暗殺の事例を見つけられませんでした。

ですから、

「戦国時代の忍びは暗殺者だった」

と今回の記事では書きません。

後世の書物では暗殺も任務として説明されている。

一方、今回確認した戦国期の史料例では、放火・奇襲・輸送妨害・潜入などが確認できた。

そこまでにします。

忍びは、軍隊の外にいる謎の集団だったのか

今回、特に面白かったのがここです。

平山は、北条氏邦の書状に、

透波・忍びが「敵之足軽」

と記されていることに注目しています。

そこから平山は、

忍びは戦国大名の軍事編成上、「足軽」に位置づけられていた

と整理しています。

これは、かなり現在のイメージと違います。

忍者というと、

武士でも農民でもない秘密集団。

大名の命令を受けて影で動く特別な存在。

という印象があります。

しかし平山の整理では、

戦国大名の軍隊の中に組み込まれた足軽の一種

として見えてきます。

違うのは、主に仕事の内容です。

通常の足軽が昼間の戦闘に参加するのに対して、忍びは夜間の潜入や奇襲など、特殊な任務に使われる。

そういう違いだったという理解です。

「忍者の正体は足軽」と言い切ってよいのか

ここは慎重にしておきます。

これは平山優という研究者の整理です。

今回の記事がすべての忍びを調べて、

「忍者とは足軽である」

と証明したわけではありません。

実際、出自も一種類ではなかったとされています。

平山は、

庶民の中から軍役として徴発され、忍びの任務を命じられた者

と、

野武士や強盗などから見いだされ、扶持を与えられた者

という二つの範疇を挙げています。

つまり最初から「忍者」という職業の家に生まれた人だけが活動していたわけではない、ということです。

必要な技能を持つ人間を集め、軍事任務として「忍び」をさせる。

そんな形もあったようです。

伊賀・甲賀は最初から「忍者の里」だったのか

忍者の話になると、

伊賀

甲賀

は外せません。

しかし研究の説明を読むと、「忍者の里」という言葉から始めるより、地域社会から考えたほうが分かりやすくなります。

藤田達生は、伊賀国や近江国甲賀郡では強力な戦国大名が成長せず、

国人・土豪による地域的な結合が成立していたと説明しています。

伊賀では伊賀惣国一揆。

甲賀では甲賀郡中惣。

そして、そこに属する足軽たちは他国へ出て、傭兵として攻城戦などに参加しました。

藤田は、

伊賀や甲賀の足軽が、大将格の人物のもとで故郷を離れ、他国で軍働きをすることを得意としていた

と述べています。

つまり、

「忍者の里があったから忍者が出た」

というより、

独自の地域権力と武装集団があり、そこから他国で働く足軽が出ていった

という順番です。

「伊賀者」「甲賀者」という説明は後世にも残った

江戸後期の『武家名目抄』になると、その由来についてかなり具体的な説明が出てきます。

伊賀国や近江国甲賀は地侍の多い土地で、

応仁以後、それぞれ党を作って戦争を繰り返し、盗賊的な活動もあった。

そのため自然に間諜の術に長じた者が多くなった。

そこで諸大名がそうした地侍を召し抱え、忍びの役をさせるようになった。

その結果、「伊賀者」「甲賀者」と呼ばれる者が諸国に広がった。

そのような説明です。

ただし、何度も書きますが、

これは江戸後期の説明です。

戦国時代に書かれた資料が、自分たちをこのように説明しているわけではありません。

戦国時代から約100年後、「忍術」が本になる

ここで時代を大きく進めます。

戦国時代が終わり、忍びが実戦で動いていた時代から約100年後。

忍術の知識が書物としてまとめられるようになります。

代表的なのが、

『万川集海』

です。

福島嵩仁によれば、『万川集海』は延宝四年、1676年に、伊賀国湯船村の藤林保武が著したとされる忍術書です。

先ほどの信長書状が天正二年、1574年。

約100年の差があります。

この時間差は重要です。

『万川集海』を読んで、

「戦国時代の忍者はこうだった」

とそのまま言うことはできません。

『万川集海』は六つの分野に忍術を整理した

福島は、『万川集海』について、

伊賀流・甲賀流に伝わる忍術を、

正心

将知

陽忍

陰忍

天時

忍器

の六編に整理した書物だと説明しています。

質・量ともに非常に重要な忍術書と評価しています。

ここまで聞くと、

「では『万川集海』を読めば戦国忍者のすべてが分かる」

と思いたくなります。

しかし、この本は1676年に編纂されたものです。

戦場でその日に書かれた記録ではありません。

伝えられてきた忍術を後世に整理した書物

として見る必要があります。

今回の記事では『万川集海』そのものの本文までは読んでいないので、具体的な術の内容を紹介することもしません。

実は『万川集海』にも複数の形がある

さらにややこしいことがあります。

福島によれば、『万川集海』の写本は少なくとも三十七種類確認されています。

そして大きく、

伊賀本

甲賀本

という二系統に分類されるのが定説になっているといいます。

福島自身は、比較するなら伊賀本を善本とするのがよいだろうと述べています。

一方、これまで出版された翻刻や現代語訳の多くは甲賀本を底本にしてきたとも指摘しています。

つまり、

「万川集海にはこう書いてある」

と言う場合ですら、

「どの万川集海か」

を意識する必要があります。

忍者研究が意外に文献学的な世界だということが分かります。

そしてさらに後、私たちが知る「忍者像」が作られていく

ここでもう一度、時代を進めます。

今度は大正から昭和です。

現代人が「忍者」と聞いて想像する、

黒装束。

手裏剣。

服部半蔵。

猿飛佐助。

霧隠才蔵。

こうしたイメージが、どのように定着したのかという問題です。

田村梨紗は、その一例として服部半蔵を追っています。

服部半蔵は最初から「有名忍者」だったわけではない

現在、服部半蔵は日本でも特に有名な忍者の名前でしょう。

しかし田村によれば、歴代服部半蔵の中で最も有名な半蔵正成は、

徳川家康の家臣であって忍者ではない

としています。

そして面白いことに、大正時代に起きた最初の忍者ブームでは、

猿飛佐助や霧隠才蔵は人気でしたが、

服部半蔵はほとんど登場しなかった

といいます。

大正六年の忍術研究書『忍術の極意』にも、服部半蔵の記述は確認できないとのことです。

現在の感覚ではかなり意外です。

服部半蔵が「忍術者」になっていくのは昭和

田村が確認した中では、昭和十三年の藤田西湖『忍術とは?』に服部半蔵の名が現れます。

さらに昭和十四年、玉林晴朗の「忍術と服部半蔵」では、

服部半蔵を「忍術者」と記している

といいます。

現在の「忍者・服部半蔵」というイメージが、少なくともこの頃には明確に現れてきます。

ただし、その後について田村は、

昭和十四年から昭和二十七年までの忍術研究書・創作では、半蔵に関する記述は未発掘

としています。

「存在しなかった」ではなく、

まだ見つけられていない

という表現です。

この慎重さは、そのまま残しておいたほうがよいでしょう。

黒装束の忍者は、いつ定着したのか

もう一つ、現代の忍者像を象徴するものがあります。

黒装束です。

忍者といえば、頭から足まで黒。

しかし、このイメージが戦国時代から続いているのかというと、今回そこまでは確認できませんでした。

田村は、吉丸雄哉の説として、

現在の黒い忍者装束の定着は、演劇によって進んだのではないか

という見方を紹介しています。

小説なら文章で「この人物は忍者だ」と説明できます。

しかし舞台では、一目見ただけで役柄が分かる必要があります。

そのため、黒い装束が「忍者」を示す記号になったのではないか、という考え方です。

ただし今回は吉丸の原典を読んでいません。

田村論文を通した孫引きです。

昭和34年のマンガでは、服部半蔵が黒装束を着ている

田村が具体例として挙げるのが、白土三平の『忍者旋風』です。

昭和三十四年から三十五年頃の作品で、

そこに登場する服部半蔵は黒い忍び装束を着ています。

田村は、

服部半蔵に黒装束を着せ、視覚的に忍者として表現したかなり早い例だろう、

としています。

ここまで来ると、

戦国時代の「忍び」と、

私たちが思い浮かべる「黒装束の忍者」の間に、

かなり長い時間があることが分かります。

戦国の「忍び」と、江戸の忍術書と、昭和の忍者像

今回の記事で一番分けておきたいのは、ここです。

忍者について調べると、

戦国時代の実戦記録。

江戸時代の忍術書。

近代の小説・研究書・漫画。

この三つが簡単に混ざります。

しかし、同じものではありません。

戦国時代

史料には、

忍び。

透波。

かまり。

草。

と呼ばれる人々が現れます。

城へ潜入する。

火を付ける。

兵糧輸送を襲う。

伏兵として潜む。

夜間に敵を攪乱する。

そうした軍事行動が記録されています。

平山優は、これらの人々を大名の軍事編成では足軽として位置づけられていたと整理しています。

約100年後

『万川集海』などの忍術書が編纂されます。

実戦のその日の記録ではなく、

伝承された忍術を整理し、体系化する時代

です。

さらに近代

大正時代に忍者ブームが起こり、

猿飛佐助や霧隠才蔵が人気になる。

昭和になると服部半蔵も「忍者」として語られ始める。

そして漫画や演劇などを通して、

黒装束の忍者

という視覚的イメージも定着していきます。

この三つを全部「昔の忍者」として一つにすると、どこからどこまでが戦国時代の話なのか分からなくなります。

「忍者は実在したのか」という問いだけでは足りない

今回資料を追っていて感じるのは、

「忍者は実在したのか」

という問いそのものが、少し大きすぎるということです。

少なくとも、夜に敵城へ入り込む人間はいました。

「忍」と書かれる人々が火を付けた記録があります。

「かまり」が敵の補給物資を奪った記録があります。

「透波」が来るという情報を受け、城側が夜通し警戒した記録があります。

つまり、

忍び込んで情報を取り、敵を攪乱し、火を付け、輸送を妨害する人々

は史料の中に出てきます。

ただし、

黒装束。

手裏剣。

特殊な忍術。

世襲の秘密集団。

暗殺者。

といった現在の「忍者セット」が、そのまま戦国時代の記録に出てくるわけではありません。

そこは一つずつ時代を分けて確かめる必要があります。

今回確認できたこと

今回読んだ研究から、次のことが確認できました。

戦国時代の史料には、

忍び・透波・かまり

などの言葉が現れます。

彼らについて、

城への侵入。

放火。

敵兵の殺傷。

荷駄の奪取。

補給路の遮断。

夜襲。

伏兵。

城の乗っ取り。

などの活動例が紹介されています。

守る側も、夜間に石を転がし、松明を投げ、怪しい場所を突くなど、具体的な対策を取っていました。

平山優は、こうした忍びを戦国大名の軍事編成上、足軽として位置づけられていた人々と整理しています。

一方、1676年には『万川集海』が編纂され、忍術が体系化されます。

さらに大正・昭和期になると、猿飛佐助・霧隠才蔵・服部半蔵や黒装束といった、現在につながる忍者イメージが形成されていきます。

つまり、

戦国期の「忍び」と、江戸期の忍術書に描かれる忍者と、近代以降の創作上の忍者は、同じ時代のものではありません。

ここを分けて読むだけでも、「忍者の歴史」はかなり違って見えてきます。

今回確認していないこと

この記事では、戦国期の史料原典を直接確認していません。

『高白斎記』『八代日記』『家忠日記』などの内容は、平山優の論文が紹介した範囲で扱っています。

『万川集海』『正忍記』『忍秘伝』の本文も、今回は読んでいません。

手裏剣については、『古事類苑』に引かれた逸話を確認しただけで、戦国期にどの程度使用された武器だったのかは分かりません。

戦国時代の具体的な暗殺事例にも到達していません。

黒装束の起源についても、演劇による定着という研究上の見方を確認したところまでです。

また、「忍者」という語が戦国時代にどの程度一般的に使われていたのかも、今回確認できていません。

分からないことは、そのまま残しておきます。

そのうえで、ひとつだけ確かなことがあります。

天正二年の信長書状には、夜、敵が城の奥まで「忍び入った」ことが記されている。

現在の忍者像とは違っていても、

敵に見つからないよう夜の城へ入り込む人々は、確かに戦国時代の記録に残っています。

参考資料

  • 平山優「戦国時代の忍びの実像」『忍者研究』第3号、2020年

  • 藤田達生「伊賀者・甲賀者考」『忍者研究』創刊号、2018年

  • 福島嵩仁「『万川集海』の伝本研究と成立・流布に関する考察」『忍者研究』第4号、2021年

  • 田村梨紗「『忍者・服部半蔵』の誕生──昭和三九年までの作品を対象に」『忍者研究』第3号、2020年

  • 『古事類苑』兵事部、神宮司庁古事類苑出版事務所、1914年

 

タイトルとURLをコピーしました