「刀狩」と聞くと、豊臣秀吉が農民から刀を取り上げ、武士と農民をはっきり分けた政策――そんなイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。
学校の日本史でもよく登場する言葉です。
ところが、実際の文書を読んでみると、そこには刀だけではなく、脇指、弓、槍、鉄砲まで並んでいます。さらに、集めた刀や脇指を「大仏を造るための釘や鎹にする」とまで書かれています。
では、いわゆる「刀狩令」には、実際には何が書かれていたのでしょうか。
この記事では、天正16年(1588年)7月8日付の「條々」を、刊本に翻刻された文章から読んでいきます。
なお、今回確認したのは史料集に収録された翻刻文です。原文書そのものを直接確認したわけではありません。その点を踏まえたうえで、できるだけ文書に書かれている内容に沿って見ていきます。
「刀狩令」という名前の文書ではない
今回中心に読むのは、『大日本古文書』の「家わけ 小早川家文書之一」に文書番号五〇三として収録されているものです。
日付は天正16年7月8日。秀吉の朱印を持つ文書で、刊本では表題が単に「條々」となっています。
つまり、本文に「刀狩令」と書かれているわけではありません。
現在では一般に「刀狩令」と呼ばれているため、この記事でも分かりやすさを優先してこの呼び方を使います。
また、『大日本古文書』では欄外に、
「諸國百姓武具所持ノ禁令」
という頭注が付けられています。
これは史料を編集した側が内容を分かりやすく示すために付けた見出しであり、当時の文書本文そのものではありません。
こうした区別をしておくと、史料集を読むときに「当時書かれた言葉」と「後世の編集者が付けた説明」を混同せずに済みます。
百姓が持つことを禁じられたのは「刀」だけではなかった
まず第一条です。
ここで対象になっているのは、諸国の百姓が持つ、
刀・脇指・弓・槍・鉄砲、そのほか武具の類
です。
刀狩という名前から刀だけを集めた政策のように感じますが、文書を読む限り対象はかなり広いことが分かります。
そして、それらを所持することを「堅く御停止」とするとしています。
では、なぜ百姓が武具を持ってはいけないのでしょうか。
第一条には、その理由も続けて書かれています。
百姓が不要な武具を蓄えれば、年貢を納めることを渋るようになり、場合によっては一揆を企てたり、給人に対して不当な行動に出たりするかもしれない。
そのような者が処罰されれば、その土地の田畑は荒れ、結果として知行にも損害が出る――という論理です。
今の感覚からすると、かなり露骨です。
単に「農民には武器が必要ない」と言っているのではありません。
武器を持つことが、
「年貢を納めない」
「一揆を起こす」
「領主側に抵抗する」
といった事態につながる可能性を、発令する側が意識していたことが文面から読み取れます。
ただし、一つ注意したいところがあります。
この文書から分かるのは、あくまで秀吉政権がそのような命令を出したことです。
この一枚だけを読んで、「このとき日本中の農村から武器が完全になくなった」とまでは言えません。
命令が出されたことと、その命令が各地でどこまで徹底されたのかは、分けて考える必要があります。
武具を集める役目は誰に命じられたのか
第一条の後半には、実際に武具を集める側も書かれています。
挙げられているのは、
国主・給人・代官
です。
彼らに対して、その土地にある武具を残らず取り集め、進上するよう命じています。
秀吉本人の家臣が全国の村を一軒ずつ回って刀を取り上げる、という形ではありません。
各地を支配している国主や給人、代官を通して命令を実行させようとしていたことが分かります。
このあたりを読むと、刀狩が単なる「農民と刀」の話ではなく、全国の支配者を通じて命令を行き渡らせようとする政治的な仕組みの中で行われていたことも見えてきます。
もっとも、実際にどれほどの武具が集まったのか、地域によってどれほど差があったのかについては、この文書だけでは分かりません。
取り上げた刀は「大仏の釘や鎹にする」と書かれている
個人的に、この文書を読んでいて特に印象に残るのが第二条です。
取り上げた刀や脇指について、ただ廃棄するのではなく、
今度建立する大仏の釘や鎹に用いる
と書かれています。
ここでいう大仏は、秀吉が進めていた大仏建立に関わるものです。
しかも文章はそれだけでは終わりません。
武具を大仏建立に使えば、
今生だけでなく、来世までも百姓が助かる
という趣旨まで書かれています。
現代の感覚で読むと、なかなか大胆な説明です。
百姓から武器を取り上げるという強い命令でありながら、それを単なる没収として説明するのではなく、
「その刀は大仏建立のために役立てられる」
「結果として持ち主の来世のためにもなる」
という理屈を付けています。
政治的な命令の中に、仏教的な説明が組み込まれているわけです。
刀狩という言葉だけを覚えていると、この部分は意外に感じるかもしれません。
「農具を持って耕作に励め」という第三条
第三条では、百姓がどうあるべきかについてさらに踏み込みます。
百姓は農具を持ち、農業に専念していれば、子々孫々まで長く安定して暮らしていける。
そのような趣旨が書かれています。
そして、この命令は百姓を苦しめるためではなく、百姓を「あわれむ」ために出されたのだと説明しています。
さらに、
「国土安全万民快楽の基」
である、とまで述べています。
つまり、この文書自身の説明に従えば、
「農民から武器を奪う」
という命令ではなく、
「百姓を農業に専念させ、社会を安定させるための政策」
として位置付けられているのです。
もちろん、ここで注意したいのは、これはあくまで命令を出した側が示した説明だということです。
秀吉政権が実際にどのような政治的意図を持っていたのかを考えるには、この文書だけではなく、他の史料や研究も見る必要があります。
ただ、「刀狩令そのものが自分自身をどう説明しているか」という点では、とても興味深い部分です。
なぜ中国古代の「堯」の話が出てくるのか
第三条の後半には、突然、中国古代の話が登場します。
出てくるのは唐堯(とうぎょう)です。
堯は、中国古代の伝説的な聖王として知られる人物です。
文書では、かつて天下を治めた際に、宝剣や鋭い刀を農具として利用したという故事が持ち出されています。
そして百姓に対して、この趣旨を守り、
農桑に精を入れるべし
と続きます。
農業に励むだけでなく、桑を育てること、つまり養蚕なども含めて生産に力を入れよ、ということです。
ここまで読むと、この「條々」が描こうとしている社会像が少し見えてきます。
百姓は武器を持つのではなく農具を持つ。
一揆や抵抗ではなく耕作に励む。
武器は大仏建立のために利用する。
そして、その状態こそが天下の安定につながる。
少なくとも、文書の中ではこのような筋道で説明されています。
刀狩令を「武士と農民を分けた政策」とだけ覚えていいのか
学校の日本史では、刀狩はしばしば「兵農分離」と結びつけて説明されます。
それ自体は歴史の流れを理解するうえでは便利な整理です。
しかし、実際の文書を読んでみると、それだけでは見えてこない部分があります。
たとえば、第一条でかなり強く意識されているのは、百姓が武器を持ったまま年貢に抵抗したり、一揆を起こしたりする可能性です。
一方で第二条では、没収する刀を大仏建立に役立てるという宗教的な説明も加えられています。
さらに第三条では、
「百姓は農業に励むことこそ安定につながる」
という秩序観が語られています。
教科書で「1588年、秀吉が刀狩令を出した」と一行で覚えるだけでは、こうした文章の雰囲気まではなかなか伝わりません。
史料そのものを読む面白さは、こういうところにあるのだと思います。
同じ「條々」でも末尾の文章が違う
今回、もう一つ興味深かった点があります。
同じ趣旨の「條々」は、『小学国史の史料と原拠』にも高野山文書として収録されています。
日付はこちらも天正16年7月8日です。
二つの刊本を見比べてみると、末尾の文章に違いがあります。
『大日本古文書』では、
「右道具急度取集、可有進上候也」
と翻刻されています。
一方、『小学国史の史料と原拠』では、
「右道具急度取集可致進上不可油断候也」
となっています。
後者には「不可油断候也」という文言が加わっています。
今回確認できたのは、あくまで二つの刊本で翻刻された文章が異なっているというところまでです。
原文書を直接比較していないため、どちらがより原本に近いのか、なぜ違いが生じているのかについては判断できません。
ただ、歴史史料を読んでいると、同じ文書だからといって必ずしも活字化された文章が完全に一致するとは限らない、という一例として興味深いところです。
実際に刀はどこまで取り上げられたのか
ここまで読んでくると、次に気になるのは、
「では、本当に農民から刀や鉄砲がなくなったのか」
ということでしょう。
残念ながら、今回読んだ「條々」だけではそこまでは分かりません。
この史料が教えてくれるのは、
-
どの武具の所持を禁じたのか
-
誰に武具を集めるよう命じたのか
-
なぜ武具を持たせないのか
-
集めた刀や脇指をどうすると説明したのか
-
百姓にどのような生活を求めたのか
という、発令する側の命令と論理です。
一方、
「各地の村で実際に何本集められたのか」
「武器を隠し持つ人はいなかったのか」
「地域によって対応に違いがあったのか」
「その後も農民が武器を持つ例はなかったのか」
といった問題は、別の史料を調べる必要があります。
むしろ、そこを分けて考えることが史料を読むうえでは大切です。
刀狩令を実際に読んでみると、印象が少し変わる
刀狩令という名前は有名ですが、その本文まで読む機会は意外と多くありません。
実際に読んでみると、単純に、
「農民から刀を取り上げた」
だけの文書ではないことが分かります。
対象になっていたのは刀だけではなく、脇指、弓、槍、鉄砲などの武具でした。
武器を持たせない理由として年貢や一揆への言及があり、集めた刀は大仏建立に使うと説明され、最後には百姓に農業へ専念するよう求めています。
その文章から見えてくるのは、秀吉政権が考える「百姓のあるべき姿」と、安定した社会をどう作ろうとしていたのかという発想です。
もちろん、この文書だけで刀狩の実態や秀吉の意図をすべて説明することはできません。
それでも、教科書の「刀狩令」という四文字から一歩進んで、当時の文章を実際に読んでみると、政策の見え方はかなり変わってきます。
今後は、刀狩が各地でどのように実行されたのかについても、別の史料から追ってみたいと思います。
参考資料
今回の記事では、以下の刊本に収録された翻刻文を確認しました。
-
『大日本古文書 家わけ 小早川家文書之一』東京帝国大学文学部史料編纂所編、1927年
国立国会図書館デジタルコレクション -
『小学国史の史料と原拠』1933年
国立国会図書館デジタルコレクション
※この記事では刊本に掲載された翻刻文を使用しています。小早川家文書・高野山文書の原文書そのものは直接確認していません。

