真田幸村と信繁|史料ではどちらの名前が使われているのか

人物

 

「真田幸村」と聞けば、戦国時代をあまり知らない人でも名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。

ところが、歴史の本や博物館では「真田信繁」と書かれていることがあります。

2016年の大河ドラマ『真田丸』でも、主人公の名は「信繁」でした。

同じ人物なのに、なぜ名前が二つあるのでしょうか。

今回は、「どちらの呼び方が有名か」ではなく、実際に史料や古い書物を見たとき、どの名前が出てくるのかというところから追ってみました。

先に大まかな結論を言うと、今回確認した資料では、本人の署名として「信繁」が現れます。

一方、「幸村」は後世の書物で使われるようになり、やがてこちらの名前が広く知られるようになりました。

その過程を資料ごとに見ていきます。

「幸村」のほうが有名なのに、本人の署名は「信繁」

まず確認したのが、『高野山文書』の刊本です。

1939年に刊行された『高野山文書』には、蓮華定院文書の一通が、

「眞田信繁書狀」

という標目で収録されています。

そして書状の末尾を見ると、

「信繁」

という署名と花押があります。

日付は6月23日。年は記されておらず、刊本でも年未詳として扱われています。

ここで興味深いのは、私たちに馴染みのある「幸村」ではなく、実際の書状に現れる名前が「信繁」だということです。

もちろん、今回確認したのは1939年に刊行された翻刻であり、原文書そのものを直接見たわけではありません。

また、この一通だけを材料に人物や年代について新たな判断をするつもりもありません。

ただ少なくとも、刊本上では「眞田信繁書狀」と整理された文書に、「信繁」という署名が確認できます。

ここは、「幸村」と「信繁」の問題を考えるうえで大きなポイントです。

では「幸村」という名前はどこに出てくるのか

次に読んだのが『翁草』です。

『翁草』は江戸時代の随筆として知られる書物ですが、今回確認したのは1906年に刊行された校訂本です。

そこには真田左衛門佐の名前について、少し変わった記述があります。

『翁草』はまず、諸記録では、

「幸村」

と書かれていると述べています。

ところが、それに続いて、

『続武者物語』だけは「信繁」と記している

という趣旨の説明をしています。

さらに話は続きます。

『翁草』によると、西山公が調べたところ、

「幸村に非ず、信仍なり」

と記したというのです。

つまり、この短い部分だけでも、

  • 幸村

  • 信繁

  • 信仍

という三種類の名前が登場します。

読んでいる側としては、「名前が増えているじゃないか」と言いたくなるところです。

しかも『翁草』自身も、「仍」の字を「シゲ」と読むのかどうかは、さらに考える必要があるという趣旨のことを書いています。

この記述を見ると、真田左衛門佐の諱については、後世の人々の間でもすでに混乱があったことがうかがえます。

ただし注意したいのは、今回私が直接読んだのは『翁草』です。

『翁草』が名前を挙げている『続武者物語』や西山公の文章そのものを確認したわけではありません。

したがって、「『続武者物語』には確実にこう書かれている」と一段飛ばして考えるのではなく、『翁草』がそのように紹介していると受け取るのが安全です。

「幸村」は後世には普通に使われている

次に、時代をかなり下って1921年。

福本日南の『大阪城の七将星』を読むと、本文では普通に、

「幸村」

という名前が使われています。

ここまで来ると、私たちが現在知っている「真田幸村」という呼び方にかなり近くなります。

もちろん、1921年の本に「幸村」と書いてあるからといって、1615年の大坂の陣当時にも本人が幸村と名乗っていたことにはなりません。

むしろ、この本から分かるのは、

近代になる頃には「幸村」という名前が広く通用する呼び名になっていた

ということです。

歴史上の人物には、本人が生きていた時代の名前より、後世の物語や小説で使われた名前のほうが有名になってしまう例があります。

真田幸村も、その代表的な人物と考えると分かりやすいでしょう。

『史料綜覧』では「真田信繁」

一方、東京大学史料編纂所が編纂した『史料綜覧』を見ると、慶長19年10月の項に、

「眞田信繁・長宗我部盛親・後藤基次等、大坂城ニ入ル」

という綱文があります。

ここでは「幸村」ではなく、はっきり真田信繁とされています。

その下には典拠として、『駿府記』『本光國師日記』『當代記』『言緒卿記』など複数の史料名が並んでいます。

ただし、ここは区別が必要です。

今回直接読んだのは『史料綜覧』であって、その下に挙げられている『駿府記』などを一つずつ確認したわけではありません。

ですから、

「『駿府記』にも信繁と書いてある」

とまでは今回の記事では言えません。

確認できるのは、『史料綜覧』が大坂城に入った人物を「眞田信繁」と記しているということです。

「幸村」という名前はいつ広まったのか

ここまで自分で確認した資料だけでも、

本人の署名として「信繁」があり、後世の書物では「幸村」が使われている、

という違いは見えてきます。

では、「幸村」という名前はどこから広まったのでしょうか。

国立国会図書館が2017年に掲載した真田信繁についての解説では、17世紀後半、1670年頃に成立した軍記物語『難波戦記』が、真田信繁を「幸村」と記した最初の例とされています。

『難波戦記』は大坂の陣を描いた軍記物で、写本として広まり、講談などにも影響を与えました。

さらに後の『真田三代記』などにも「幸村」の名前が引き継がれていきます。

こうして考えると、「幸村」という名前が現在まで残った理由も少し見えてきます。

真田信繁は、大坂の陣での活躍によって後世に人気の武将となりました。

その英雄像が軍記や講談によって語り継がれる過程で、「真田幸村」という名前も一緒に広がっていったのでしょう。

つまり、

史料上の人物としての「真田信繁」と、物語の英雄として有名になった「真田幸村」

という二つの顔が重なり合って、現在のイメージができあがっていったと考えると理解しやすくなります。

なぜ「幸村」のほうが有名になったのか

これはなかなか面白いところです。

本人が「信繁」と名乗っていたとしても、400年以上たった現在では「幸村」のほうが圧倒的に知られています。

映画、小説、ゲーム、漫画などでも長い間「真田幸村」という名前が使われてきました。

そのため、「幸村が本名で、信繁は別名なのでは?」と感じる人がいても不思議ではありません。

しかし、史料から人物を追うときには順番が逆になります。

まず「信繁」があり、その後に「幸村」という名前が広く語られるようになった。

国立国会図書館のレファレンスでも、現存する史料から見れば実名は「信繁」とするのが基本的な整理になっています。

一方で、「幸村」という名前も江戸時代から何百年にもわたって使われてきました。

単なる最近の創作上のニックネームではありません。

このため現在では、

歴史上の名としては「真田信繁」、広く知られた別称として「真田幸村」

という形で両方の名前を見ることになったわけです。

『翁草』に出てくる「信仍」はどう考える?

今回資料を読んでいて、個人的に一番引っかかったのは「幸村」よりもむしろ「信仍」でした。

『翁草』は、西山公が「幸村に非ず、信仍なり」と記したと紹介しています。

しかし、現在一般的に人物名として使われているのは「信繁」です。

では「信仍」は何だったのでしょうか。

誤記なのか、別の伝承なのか、文字の読み取りに関係するものなのか。

今回確認した資料だけでは判断できません。

こういう箇所に出会うと、歴史資料は一冊読めば答えが決まるものではないことがよく分かります。

ある本では「幸村」、別の本では「信繁」、さらに別の伝承を紹介する文章では「信仍」。

資料を横に並べて初めて、

「そもそも後世の人も名前をめぐって迷っていたのではないか」

ということが見えてきます。

これも実際に古い資料を読む面白さの一つです。

結局、真田幸村と信繁のどちらなのか

今回確認した資料を並べると、かなり整理できます。

『高野山文書』の刊本に収められた書状には、「信繁」という署名があります。

『史料綜覧』も、大坂城に入った人物を「眞田信繁」としています。

一方、『翁草』では「諸記録」が「幸村」と記していると紹介され、近代の『大阪城の七将星』では普通に「幸村」という呼び名が使われています。

そして国立国会図書館などの解説では、「幸村」は17世紀後半の『難波戦記』から広まり、後世の軍記や講談によって定着した名前とされています。

こうして資料を時代順に眺めてみると、

本人に近い史料では「信繁」。後世に英雄として語られていくなかで「幸村」が広まった。

という流れが見えてきます。

「幸村は完全な間違いだから使ってはいけない」と考える必要もないでしょう。

何百年にもわたって「真田幸村」として親しまれてきたのも、この人物の歴史の一部だからです。

ただ、大坂の陣を生きた本人を史料から追いかけるなら、まず覚えておきたい名前は、

真田信繁。

今回いくつかの資料を読み比べてみて、そこはかなりはっきり見えてきました。

今回確認した資料について

この記事では、史料の「直接確認」と、別の本からの「引用・紹介」を区別しています。

『高野山文書』『翁草』『大阪城の七将星』『史料綜覧』については、国立国会図書館デジタルコレクション等で刊本の該当箇所を確認しました。

一方、『翁草』が名前を挙げている『続武者物語』や西山公の記述、『史料綜覧』が典拠として挙げる『駿府記』『本光國師日記』『當代記』『言緒卿記』については、今回それぞれの本文を直接確認していません。

また、『高野山文書』についても確認したのは1939年刊の翻刻であり、原文書そのものを実見したものではありません。

そのため、この記事では直接確認していない史料について断定することは避けています。

参考資料

  • 『高野山文書』高野山史編纂所編、1939年

  • 『翁草 : 校訂』神沢貞幹編・池辺義象校訂、1906年

  • 福本日南『大阪城の七将星』1921年

  • 『史料綜覧』東京大学史料編纂所編、1954年

  • 国立国会図書館『国立国会図書館月報』669号、2017年1月

  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「真田信繁は、以前は真田幸村と言っていたと思うが、どちらが正しい名前なのか。」

タイトルとURLをコピーしました