平将門|一次史料が記すことと、丸山忠綱が1953年に論じたこと

人物

 

平将門という人物には、不思議な二つの顔があります。

平安時代に朝廷と戦い、「新皇」を称した人物。

そしてもう一つが、東京・神田明神の祭神として知られる将門です。

この二つは、どのようにつながっているのでしょうか。

そう思って古い史料を読んでみたのですが、今回確認した『日本紀略』や『将門記』の該当箇所には、神田明神の話は出てきません。

一方、1953年に丸山忠綱が発表した論文を読むと、将門と神田明神の関係について、かなり大胆な説が展開されています。

そこでこの記事では、二つをいったん分けて読みます。

平安時代に近い史料には、平将門について何が書かれているのか。

そして、

丸山忠綱は1953年、将門と神田明神の関係をどのように説明しようとしたのか。

史料に「書いてあること」と、研究者が史料を材料に「論じたこと」。

この二つを混ぜないように見ていきます。

まず読んだのは『日本紀略』と『将門記』

今回、平将門について確認した古い史料は二つです。

一つは『日本紀略』。

もう一つが『将門記』です。

どちらも原本を直接見たのではなく、刊行された史料集に収められた翻刻を読んでいます。

そして神田明神との関係について読んだのが、丸山忠綱の論文、

「平將門と神田明神と唱門師」

です。

1953年3月、『法政大學史學會々報』第5号に掲載された短い論文です。

ここはかなり重要です。

丸山論文は70年以上前に書かれた一つの研究です。

現在の研究動向をまとめたものではありません。

したがって以下では、「将門と神田明神の関係はこうだった」と紹介するのではなく、「丸山はこう考えた」という形で読んでいきます。

『日本紀略』には朝廷が将門を警戒していく様子が残る

まず『日本紀略』です。

天慶2年(939年)12月29日の条を見ると、信濃国から朝廷への言上として、平将門が兵士らを付け、

上野介藤原尚範、下野守藤原弘雅、前守大中臣定行らを追い上げたことが記されています。

それを受け、朝廷は信濃国に軍兵を徴発させ、国内を守らせました。

さらに三関の国々や東山道・東海道の諸国にある要害を警固させたことも記されています。

つまりこの段階で、将門をめぐる騒動は一地方だけの問題として処理されていません。

朝廷が広い範囲で防備を固める事態になっています。

そして翌天慶3年(940年)正月19日。

『日本紀略』には、参議・修理大夫の藤原忠文を右衛門督に任じ、

征東大将軍

としたことが記されています。

「将門の乱」という言葉だけを見ると一つの事件名として覚えてしまいがちですが、こうして編年史を追うと、朝廷が東国から届く情報を受けながら対応を強めていく様子が見えてきます。

『将門記』に登場する「新皇」

次に『将門記』です。

こちらは『日本紀略』とは文章の雰囲気がかなり違います。

有名なのが、将門が「新皇」を名乗る場面です。

『将門記』では、八幡大菩薩の使いと称する「昌伎」が現れ、

「朕位を蔭子平将門に奉授す」

という趣旨を述べたと記されています。

それを受けた将門は拝礼し、その後、

自ら号を作って「新皇」と名づけた

とされています。

平将門という人物が後世まで強烈な印象を残した理由を考えるとき、この「新皇」という言葉はやはり大きいでしょう。

単に地方で争いを起こした人物ではなく、「新しい皇」を称した人物として物語られているからです。

ただし、ここで読んでいるのはあくまで『将門記』の記述です。

書かれている場面を、そのまま起きた事実として扱うのではなく、

『将門記は将門をこのように描いている』

と読む必要があります。

『将門記』の最後では、将門はかなり厳しく評価される

『将門記』を読んでいて印象に残るのは、「新皇」の場面だけではありません。

末尾には、

「将門の悪、既に千里の外に通ず」

という厳しい言葉が置かれています。

さらに死後についても、悪趣をめぐり苦しみを受けているという内容が、「中有の使」からの消息という形で語られます。

現在、平将門には「反逆者でありながら民衆から愛された英雄」というイメージがあります。

しかし少なくとも、今回読んだ『将門記』の末尾に現れる将門像は、それとはかなり違います。

ここでは明確に「悪」という言葉が使われています。

だからといって、

「当時の人々全員が将門を悪人と考えていた」

とは言えません。

一冊の史料に書かれた評価を、その時代全体の世論に広げることはできないからです。

ただ、『将門記』という作品が最後にどのような評価を将門に与えているかという点では、見逃しにくい部分です。

『将門記』の成立時期は、この奥書だけでは決められない

今回使った『群書類従』収録の『将門記』には、末尾に興味深い記載があります。

「天慶三年六月中記文」

とあり、その後には、

「承徳三年正月廿九日、大智房に於て酉時許り書き了んぬ。同年二月十日未時読み了んぬ」

という奥書も印刷されています。

一見すると、これだけで文章がいつ作られ、いつ書写されたのか分かりそうに見えます。

しかし、そう簡単ではありません。

今回確認したのは『群書類従』という刊本に印刷された本文です。

この奥書がどの写本に由来し、本文がどのような過程を経て現在の形になったのかまでは調べていません。

古い史料を読んでいると、こういうところで「書いてある年代」と「作品そのものの成立年代」をつい同じものとして扱いたくなります。

今回はそこには踏み込みません。

ここまでの史料には、神田明神の話が出てこない

さて、ここで最初の疑問に戻ります。

平将門といえば、現在では神田明神との関係も非常に有名です。

では、『日本紀略』や『将門記』には神田明神について何か書かれているのでしょうか。

今回確認した範囲では、出てきませんでした。

将門を祀る塚についても、今回読んだ箇所には現れません。

もちろん、これだけで、

「平安時代には将門と神田明神は無関係だった」

と結論づけることはできません。

今回読んだのは限られた史料の限られた範囲だからです。

ただ少なくとも、今回確認した一次史料の記述から、そのまま神田明神の祭神としての将門へ話をつなげることはできませんでした。

では、その関係をどう説明すればいいのか。

1953年、そこに独特の答えを出そうとした研究者が丸山忠綱でした。

丸山忠綱は「民衆が反逆者・将門を祀った」という説明を疑った

丸山忠綱の論文「平將門と神田明神と唱門師」は、冒頭からある説に疑問を投げかけています。

丸山が取り上げるのは、石母田正らに関係する見方です。

丸山によれば、その説では、

神田明神の祭神の一柱が平将門になったのは、一般民衆が支配者に反感を抱いていたためであり、朝廷への反逆者であった将門が民衆の人気を集め、祭神として祀られるようになった、

というように説明されていました。

現在の私たちからすると、かなり分かりやすい物語です。

権力に反抗した将門を、民衆が英雄として祀った――。

しかし丸山は、この説明に対して、

「果してそうであろうか」

と疑問を投げかけます。

ここから論文は、かなり意外な方向へ進みます。

丸山が注目した「ショウモン」という人々

丸山が注目したのが、

ショウモン

という言葉です。

唱門師、声聞師などと書かれる人々について、丸山は中世の下級陰陽師のような存在として説明しています。

祈祷を行ったり、正月に祝言を唱えたり、占いや歌舞・遊芸に関わったりした人々で、寺社とも関係を持っていたとしています。

丸山は彼らを、当時の社会で低い身分に位置づけられた人々の一種として論じています。

そして丸山が着目したのが、

「ショウモン」と「将門」

の音の近さでした。

ここから非常に大胆な仮説が出てきます。

「唱門の神」が「将門の神」になったのではないか

丸山自身、この部分について、

「甚だ大胆な臆説である」

と断っています。

つまり、本人も確定的な事実として提示しているわけではありません。

そのうえで丸山は、神田明神はもともとショウモンジ、つまり唱門に関係する人々が祀った神だったのではないかと推測します。

丸山の考えでは、その神はオオナムチノミコト、あるいはスサノオノミコトだった可能性があります。

ところが時代が下り、「ショウモンジ」という呼称が忘れられていった。

その過程で、

唱門の神 → ショウモンの神 → 将門の神

という理解が生まれたのではないか。

これが論文の中心となるアイデアです。

さらに丸山は、神社に関係する側から平将門に結びつける動きもあったのではないか、と推測しています。

かなり大胆な説です。

しかし、だからこそ丸山自身も「臆説」と表現していたのでしょう。

「将門塚」も「唱門塚」だったのではないか

丸山の議論は神田明神だけでは終わりません。

各地にある「ショウモン塚」についても、丸山はこれを将門塚ではなく唱門塚であると考えています。

そして、

一般民衆が朝廷に反抗した将門を英雄視したために将門信仰が生まれた、

という説明には無理がある、と論じます。

丸山が組み立てようとしたのは、

「反逆者だから民衆に人気が出た」

という政治的な説明とはまったく違う由来です。

言葉の音、中世の芸能・宗教者、神社の由緒などを結びつけ、

そもそも「将門」を祀っていたのではなく、「唱門」と関係する神だったのではないか

と考えたわけです。

丸山自身も完全には言い切っていない

興味深いのは、丸山が自説を提示したあとにも留保を付けていることです。

たとえば、社会的に賎視されていた唱門師たちが、自分たちを将門に結びつけ、その名を利用しながら支配階級への反抗意識を保っていた可能性まで否定することはできない、としています。

つまり丸山も、

「将門と民衆の反権力意識は完全に無関係だ」

と単純に切り捨てているわけではありません。

論文の最後では、平将門を祀るという神田明神の伝承は江戸時代、あるいはそれほど遠くない時代に形成されたのではないかとし、もともとは唱門師たちの神だったのではないかと結論づけています。

あくまで1953年時点で丸山が提示した説明ですが、現在一般に知られている「将門信仰」のイメージとはかなり異なる発想です。

一次史料と丸山論文を並べると見えてくるもの

今回、この二種類の資料を並べた理由はここにあります。

『日本紀略』から見えてくるのは、東国で勢力を伸ばした将門に対し、朝廷が軍事的な対応を進めていく姿です。

『将門記』では、将門が「新皇」を称した人物として描かれ、最後には「将門の悪」とまで評されています。

一方、丸山忠綱が論じているのは、それからはるか後の「平将門がどのように神として祀られるようになったのか」という問題です。

そして丸山が材料としているのも、江戸時代の記録、中世の唱門師に関する資料、神社の由緒などです。

つまり、

平将門本人を記した史料の問題と、後世の将門信仰がどう成立したのかという問題は、同じではありません。

ここを一緒にすると、

「将門は朝廷に反乱を起こした」
↓
「だから民衆に英雄視された」
↓
「だから神田明神で祀られた」

という一続きの物語に見えてしまいます。

しかし今回読んだ範囲だけでは、その一本線を史料から引くことはできませんでした。

丸山はまさに、その「だから」の部分を疑った研究者だったわけです。

1953年の丸山説を、現在どう評価するかは別の問題

ここで一番大事なのは、丸山の説明をそのまま「真相」として紹介しないことです。

今回読んだ研究論文は1953年の一本だけです。

それ以降70年以上にわたって、神田明神、将門信仰、中世の唱門師、将門塚などについてどのような研究が行われてきたのかは、今回確認していません。

ですから、

「神田明神は本当は唱門師の神だった」

と結論づけることはできません。

逆に、

「丸山説は現在では否定されている」

とも、今回の調査だけでは言えません。

この記事で確認できたのは、

1953年に丸山忠綱という研究者が、将門と神田明神の関係についてこのような仮説を提示していた

ということです。

歴史研究を読む面白さは、必ずしも「正解を一つ覚える」ことだけではありません。

同じ事象について、研究者が何を疑い、どの資料を組み合わせ、どのような説明を作ろうとしたのかを見ることにもあります。

丸山論文は、その意味でかなり面白い一本でした。

平将門を調べると「本人」と「後世の将門像」が分かれて見えてくる

平将門について調べていると、どうしても「伝説の将門」に目を奪われます。

首塚、神田明神、怨霊、東京の守護神――。

現在の将門像には、1000年を超える時間のなかで積み重なったさまざまな物語があります。

しかし、『日本紀略』や『将門記』を読むと、まず現れるのは、東国で朝廷と対立し、「新皇」と記された10世紀の将門です。

神田明神との関係は、その先にある別の歴史です。

今回読んだ丸山忠綱の1953年論文は、その「別の歴史」がどう作られたのかについて、一つの仮説を提示していました。

その説が正しいかどうかは、さらに後の研究を読まなければ分かりません。

ただ、

史料に書かれた平将門と、後世に語られた平将門は分けて考える必要がある。

今回三つの資料を並べてみて、そこはかなりはっきり見えてきました。

今回確認した資料について

今回、『日本紀略』と『将門記』については刊本の翻刻を確認しました。原本そのものを実見したわけではありません。

また、丸山忠綱「平將門と神田明神と唱門師」は本文全体を確認しましたが、丸山が論文中で引用・紹介している『新編武蔵風土記稿』『江戸神社略記』『永享記』『言継卿記』などの原資料までは確認していません。

石母田正の著作や、丸山が触れている『中央公論』の共同研究についても今回は未確認です。

さらに、1953年以降にこの問題について発表された研究については調査していません。

そのため、丸山説の現在の研究上の位置づけについては、この記事では判断していません。

参考資料

  • 『国史大系 第5巻 日本紀略』経済雑誌社、1901年

  • 『群書類従 第拾參輯』塙保己一編、1894年(『将門記』所収)

  • 丸山忠綱「平將門と神田明神と唱門師」『法政大學史學會々報』第5号、1953年3月、11〜14頁

タイトルとURLをコピーしました