参勤交代|法令が命じたことと、研究が説明していること

政治・制度

参勤交代|法令が命じたことと、研究が説明していること

参勤交代は、何のために行われた制度だったのでしょうか。

よく聞く説明の一つに、

「大名に多額の費用を使わせ、財力を削ぐため」

というものがあります。

確かに、国元と江戸を大勢で往復し、江戸にも屋敷を維持するとなれば、莫大な費用がかかったことは想像できます。

ところが、実際に武家諸法度の条文を読んでみると、少し意外なことが書かれています。

寛永十二年の法度では、従者が多すぎることについて、

「国郡の費」「人民の労」

になるとして、むしろ人数を減らすよう命じているのです。

では、

「参勤交代で大名に負担をかけた」

という説明と、

「供の人数を減らせ」

という法令は、どう考えればよいのでしょうか。

今回は、1894年刊『徳川禁令考』に収録された武家諸法度と、児玉幸多が1998年に発表した「参勤交代制度の意義」を分けて読みます。

法令が実際に何を命じたのか。

そして、

後世の研究者が制度の影響をどう説明したのか。

まずはそこを混ぜずに見てみます。

慶長二十年の法度には「諸大名参勤作法之事」がある

今回使った『徳川禁令考』第一帙には、慶長二十年七月の武家諸法度が収録されています。

その中に、

「諸大名参勤作法之事」

という条があります。

「参勤作法」とあるので、参勤交代そのものを細かく定めた文章かと思いましたが、今回確認した部分で中心になっているのは供の人数です。

多勢を引き連れてはならないとして、

百万石以下二十万石以上については、

二十騎を超えてはならない。

十万石以下については、

それぞれの身分・規模に相応する人数とする。

そして公役の場合には、その分限に従う。

そのような内容です。

つまり、この条で具体的に決められているのは、参勤の際に連れて行く供の規模の上限です。

ここでも「できるだけ大勢を連れて江戸へ来い」とは書かれていません。

むしろ逆で、人数を抑える方向の規定になっています。

寛永十二年になると「毎歳夏四月中に参勤すべし」

次に寛永十二年六月二十二日の武家諸法度です。

こちらには、

「大名小名、江戸に在ること、交替」

という言葉から始まる条があります。

ここでは、大名・小名が江戸に在ることと交替について定めたうえで、

毎年夏四月中に参勤すべき

としています。

慶長二十年の記事が供の人数を中心に書いていたのに対し、こちらでは参勤する時期まで明記されています。

現在「参勤交代」と聞いて思い浮かべる制度の姿に、かなり近い文章です。

ただ、この条で今回特に気になったのは、その次でした。

法令は「供が多すぎるから減らせ」と命じている

寛永十二年の条は、参勤について定めたあと、従者の人数に話を移します。

近年、

従者の員数が甚だ多い

と指摘します。

そして、それが、

「国郡の費」

であり、

「人民の労」

であると述べ、

今後はそれぞれに相応した人数まで減らすように命じています。

ここはかなり重要です。

「国郡の費」「人民の労」という言葉だけを取り出すと、

「幕府も参勤交代が大きな負担だったことを認識していた」

と言いたくなります。

しかし、文章の流れを丁寧に見ると、この二つの言葉は参勤交代という制度全体の目的を説明しているのではありません。

理由が付けられているのは、

従者の人数を減らすこと

です。

供が近ごろ多すぎる。

それは国郡の出費になり、人々の負担にもなる。

だから人数を適正なところまで減らせ。

そういう文章になっています。

「負担を軽くするための参勤交代」だったとも言えない

では逆に、

「幕府は大名や領民の負担を減らそうとしていたのだから、参勤交代には財力を削る目的などなかった」

と言えるのでしょうか。

これも、この条文だけでは言えません。

ここで法令が述べているのは、供の人数を減らす理由です。

参勤交代という仕組み自体を、

「なぜ行わせるのか」

という説明ではありません。

今回確認した慶長二十年・寛永六年・寛永十二年に関係する箇所では、

「この制度は○○を目的として設ける」

という形の文章を見つけることはできませんでした。

だから、

「大名の財力を削るためではなかった」

とも、

「領民を助けるためだった」

とも、この法令からは判断できません。

目的について何も書かれていないことと、目的が存在しなかったことは別だからです。

「参勤交代は寛永十二年に始まった」で終わらせてよいのか

制度がいつ始まったのかも、資料を読むと少し複雑です。

今回確認した『徳川禁令考』では、すでに慶長二十年の武家諸法度に、

「諸大名参勤作法之事」

という条があります。

一方、寛永十二年になると、交替や毎年四月の参勤について、より具体的な規定が見えます。

『徳川禁令考』の編者が付けた割注では、寛永六年の諸法度には先ほどの参勤作法の条がなく、寛永十二年以後には掲載されるという整理もされています。

ただし、これは1894年の編者による説明です。

幕府自身が、

「この年から参勤交代制度を開始する」

と説明した文章ではありません。

そのため今回は、

慶長二十年には参勤作法に関する規定がある。

寛永十二年には交替と毎年四月の参勤を命じる規定がある。

という二つの事実を並べるところにとどめます。

制度がどの時点で「成立した」と考えるべきかは、それとは別の問題です。

では、実際にどれくらいお金がかかったのか

ここから法令を離れ、研究を見ます。

今回読んだのは、歴史学者・児玉幸多の

「参勤交代制度の意義」

です。

1998年の『日本学士院紀要』に掲載された論考です。

児玉は冒頭で、参勤交代制度と証人制度の関係から話を始めています。

権力者が服従を確保するために人質を取ることがあるという話から、諸大名が家族を江戸へ送ったことへ話を進めています。

そして、参勤交代によって生じた経済的負担についても説明しています。

家族と家臣を江戸に置き、毎年往復する

児玉の論考では、参勤交代によって、

大名の家族や多数の家臣が江戸に駐在すること

そして、

領地と江戸の間を年ごとに往復すること

に多額の費用が必要だったと説明しています。

さらに、大名には参勤交代だけではなく、幕府から江戸城周辺の工事などの手伝いを命じられることもありました。

その結果について児玉は、

大小の諸藩が財政難に苦しんだ

と述べています。

大坂や伏見などの商人から借金をしたり、領民の負担を増やしたりしたとも説明しています。

ここまで読むと、

「やはり参勤交代は大名の財力を削る制度だったのでは?」

と思いたくなります。

しかし、ここでも一つ分けておく必要があります。

庄内藩では歳出の約82%が江戸で消費されたという

児玉が紹介している数字の一つに、庄内藩酒井氏の例があります。

元禄十五年から宝永三年三月までの歳出のうち、

約82%が江戸で消費されていた

としています。

かなり大きな数字です。

江戸に家族や家臣を置き、参勤のために往復する体制が藩財政にとって大きな負担になったことを感じさせます。

ただし、この82%という数字には注意が必要です。

これは庄内藩酒井氏の、特定の時期について児玉論文が紹介している数字です。

全国の藩の平均ではありません。

また「参勤交代費だけで82%」という数字でもありません。

江戸で使われた歳出全体についての数字です。

一つの具体例を、全国すべての藩へそのまま広げることはできません。

「負担になった」と「負担させるためだった」は別

ここが今回の記事で最も重要なところです。

児玉論文を読むと、

参勤交代によって大きな費用が発生した。

諸藩が財政難に苦しんだ。

という説明があります。

これは制度の結果・影響についての話です。

しかし、

「幕府は大名を財政難にする目的で参勤交代を制度化した」

という説明とは、同じではありません。

ある制度によって大きな負担が生じたからといって、

その負担を発生させること自体が制度を作った目的だった、

とは自動的には言えないからです。

今回読んだ児玉論文の範囲でも、参勤交代に多額の費用がかかったという説明は確認できました。

一方、

「大名の財力を削ぐことを目的に参勤交代を設けた」

という文章は、今回読んだ範囲では確認できませんでした。

もちろん、論文全文のすべてを今回の記事のために検証したわけではないので、

「児玉はそのような考えを完全に否定している」

という意味ではありません。

確認できた文章と、そこから推測したくなることを分けておきます。

法令と実態を並べると、少し不思議に見える

ここまで二つを並べると、面白い構図になります。

寛永十二年の法令では、

供が多すぎる。国郡の費、人民の労になるから減らせ。

と書かれています。

一方、児玉幸多の研究では、

参勤交代によって多額の費用がかかり、諸藩が財政難に苦しんだ。

と説明されています。

一見すると反対方向の話のようにも見えます。

しかし、必ずしも矛盾しているわけではありません。

制度そのものに莫大な費用が必要だったからこそ、さらに豪華になりすぎた供の人数を抑えようとした可能性も考えられます。

ただし、今回の記事ではそこまでを史実として断定しません。

確実に確認できるのは、

法令には人数を減らす規定がある。

そして、

研究では参勤交代による大きな財政負担が説明されている。

という二点です。

「財力を削ぐため」という有名な説明はどこから来たのか

ここまで調べると、むしろ次の疑問が残ります。

「参勤交代は大名の財力を削ぐためだった」という説明は、どの史料・研究から来たのでしょうか。

今回読んだ武家諸法度の条文には、そうした目的を直接述べた記述を見つけられませんでした。

児玉幸多の論考では、財政的な負担が大きかったことは説明されていますが、

少なくとも今回読んだ範囲では、

「それが制度を設けた目的だった」

とする文章までは確認できませんでした。

だからといって、有名な説明が間違いだと結論づけることもできません。

今回確認していない法令や幕府側の記録、あるいは別の研究によって論じられている可能性があるからです。

むしろ今回の記事から出てくる次の問いは、

「大名の財力を削ぐため」という説明は、誰が、何を根拠に説明したものなのか

ということでしょう。

参勤交代を「目的」と「結果」に分けて考える

参勤交代について考えるとき、

制度を作った目的

と、

制度によって実際に生じた結果

を分けると整理しやすくなります。

今回読んだ資料では、

法令から、参勤の時期や供の人数についての命令を確認できました。

研究からは、江戸と国元を往復し、家族や家臣を江戸に置くことで多額の費用が生じ、藩財政を圧迫したことが説明されていました。

しかし、

財政負担が生じたこと=財政負担を生じさせることが制度の目的だった

とは、そのままでは言えません。

ここを分けるだけでも、参勤交代の見え方はかなり変わります。

今回確認できたこと

今回の内容をまとめます。

慶長二十年の武家諸法度には、

「諸大名参勤作法之事」

という条があり、石高に応じた供の騎数の上限が定められています。

寛永十二年の武家諸法度には、大名・小名の交替と、

毎歳夏四月中の参勤

が記されています。

さらに従者が増えすぎているとして、

「国郡の費」「人民の労」

を理由に、その人数を減らすよう命じています。

一方、児玉幸多の1998年の論考では、家族や多数の家臣を江戸に置き、江戸と国元を往復することで多額の費用がかかり、諸藩が財政難に苦しんだことが説明されています。

つまり今回読んだ範囲では、

法令は供の人数を抑えるよう命じている。

そして、

研究は参勤交代が大きな経済的負担になったと説明している。

という二つの事実を確認できました。

参勤交代が「何のため」に作られたのか。

そこについては、まだ次の資料を読む必要があります。

今回確認した資料について

この記事では、1894年刊『徳川禁令考』第一帙のうち、慶長二十年・寛永六年・寛永十二年に関係する武家諸法度の箇所を確認しました。

『徳川禁令考』に付された割注や按語については、幕府の法令本文ではなく、1894年の編者による整理として扱っています。

研究については、児玉幸多「参勤交代制度の意義」の冒頭部、藩財政について論じた部分、英文要旨を確認しました。

武家諸法度のすべて、その他の幕府法令、参勤交代の実際の行列規模や街道への影響については今回扱っていません。

また、「大名の財力を削ぐため」という説明の出典についても、今回は確認できていません。

参考資料

  • 『徳川禁令考 第一帙 法制禁令之部』司法大臣官房庶務課編、1894年

  • 児玉幸多「参勤交代制度の意義」『日本学士院紀要』第52巻第3号、1998年

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