廃藩置県の日、何が命じられたのか|明治4年7月14日の公文書を読む

事件

 

明治4年7月14日。

日本史では、この日を廃藩置県の日として覚えている人が多いと思います。

教科書では、

「藩を廃止して県を置いた」

と一文で説明されることもあります。

では、実際にその日に出された公文書には何が書かれていたのでしょうか。

今回、『太政官日誌』の明治4年第45号を開いてみると、そこに載っているのは単なる「藩を廃する」という宣言だけではありませんでした。

詔がある。

知藩事への勅語がある。

知藩事を免官する手続きがある。

廃藩後も当面の事務を続けるよう命じる文書がある。

さらに、藩が発行していた紙幣をどうするかという指示まであります。

今回は、廃藩置県の日に政府が実際に何を命じていたのかを、『太政官日誌』に掲載された文書を順番に読んでみます。

今回読んだ『太政官日誌』とは

今回使用したのは、1876年刊の『太政官日誌』です。

確認したのは明治4年第四十五号。

表紙には、

「自七月十四日至十七日」

とあります。

つまり、7月14日から17日までの文書をまとめた号です。

『太政官日誌』は、太政官が発した布告や達などを掲載した公的な記録です。

今回の記事では、この一冊に並んでいる文書を追います。

政策の背景を後世の研究から説明するのではなく、まず当日の政府文書が何を命じているのかを見ることにします。

まず出てくるのは「藩ヲ廃シ県ト為ス」という詔

7月14日の項には、まず詔書の写しがあります。

冒頭では、

国内の人々を安んじ、国外では各国と向き合っていくためには、

「名実相副い、政令を一に帰せしむべし」

という趣旨が述べられています。

そして、それまでの経緯にも触れています。

諸藩からの版籍奉還を受け入れ、新たに知藩事を置いた。

しかし、

「数百年の因襲」

が長く続いたため、

「其名ありて其実挙らざる者」

がある、とします。

そのうえで出てくるのが、有名な一文です。

「仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス」

ここが、いわゆる廃藩置県の中心部分です。

詔は、なぜ廃藩置県を行うのかも自分で説明している

詔は「藩を廃して県にする」と宣言して終わりません。

その目的についても、自ら言葉を続けています。

「務メテ冗ヲ去リ簡ニ就キ」

「有名無実ノ弊ヲ除キ」

「政令多岐ノ憂ナカラシメントス」

という内容です。

現代の言葉に置き換えるなら、

余分なものを減らして制度を簡明にする。

名前だけあって実が伴わない状態をなくす。

政治上の命令がいくつもの系統に分かれてしまう問題をなくす。

といった趣旨になります。

つまり、少なくともこの詔自身は、廃藩置県を政治の仕組みを整理し、政令を一本化する措置として説明しています。

もちろん、これが政策に踏み切った理由のすべてだったとは限りません。

財政や軍事、中央集権化をめぐる事情などを考えるには、別の資料が必要でしょう。

今回確認できるのは、この日の詔が自分自身をどう説明しているかというところです。

同じ日に、知藩事へ向けた勅語も出ている

同じ号を読み進めると、知藩事へ向けた勅語が出てきます。

しかも一種類ではありません。

一つは、

鹿児島・山口・佐賀・高知

の四藩の知事に対するもの。

もう一つは、

熊本・名古屋・徳島・鳥取

の四藩の知事に対するものです。

二組に分けられ、文面も別になっています。

なぜこの八藩だったのか。

なぜ四藩ずつ二組に分かれているのか。

気になるところですが、今回読んだ文書にはその理由までは書かれていません。

ですからこの記事でも、

この八藩に対して二種類の勅語が置かれている

というところまでにします。

理由を推測で埋めることはしません。

「藩をなくす」なら、知藩事はどうなるのか

藩を廃止するとなれば、それまで各藩を治めていた知藩事の立場も変わります。

その手続きも『太政官日誌』に記録されています。

7月14日には、東京にいた知藩事を召し、御前で免官を伝えたとあります。

一方、国元にいた知藩事本人はその場に来られません。

そこで翌15日には、

在藩の知事の名代として、東京にいた参事へ同様の達を伝えた

と記されています。

つまり、一斉に「全員この場で免官」としたのではありません。

在京している人には14日。

国元にいる知事については、その名代へ15日。

実際の所在に応じて、二日に分けて手続きが行われています。

教科書では一日の出来事として覚える廃藩置県ですが、公文書を読むと、こうした細かな行政手続きが見えてきます。

御布告は驚くほど短い

同じ号には御布告の写しもあります。

文言は非常に簡潔です。

「藩ヲ廃シ県ヲ被置候事」

藩を廃して県を置く。

内容としては、ほぼそれだけです。

先ほどの詔では背景や趣旨が比較的詳しく述べられていましたが、こちらの布告は非常に短い。

同じ政策についても、

詔。

勅語。

御布告。

沙汰書。

という複数の形式の文書が出されていることが分かります。

廃藩置県は、一枚の「大号令」だけで進んだわけではありません。

でも、藩をなくした瞬間に仕事まで止めるわけにはいかない

今回『太政官日誌』を通して読んでいて、特に面白かったのがこの部分です。

藩を廃止した。

知藩事も免官した。

では、その日から地方の役所の仕事も全部止まったのでしょうか。

そうではありません。

御沙汰書には、藩を廃して県を置くことになったものの、

追って指示があるまでは、大参事以下はこれまで通り事務を取り扱うように

という内容があります。

これは行政の現実を考えると当然でもあります。

制度上「藩」をなくしたからといって、翌朝から税の徴収や役所の仕事、治安維持などを全部止めるわけにはいきません。

そのため、

制度は変える。しかし、現場の実務は当面そのまま続ける。

という指示が出されています。

廃藩置県という大きな制度改革の裏側に、こうした移行措置があったことが分かります。

元知事たちは「九月中に帰京せよ」

知藩事を免官したあと、その人々をどうするのかについても指示があります。

東京府への沙汰では、諸藩が廃止されたことを受けて、

元知事の面々は用があるので、9月中に帰京するように

とされています。

免官して、そのまま国元に残しておくわけではありません。

後日、東京へ呼び戻そうとしています。

なぜ全員を東京へ集める必要があったのか。

その後どのような処遇をしたのか。

今回の文書だけではそこまでは分かりません。

ただ、7月14日の制度変更だけで人事処理が終わったのではなく、数か月先の動きまで指示されていることは確認できます。

藩札はどうなるのか――同じ号に「お金」の問題まで出てくる

そしてもう一つ、かなり現実的な問題があります。

藩札です。

江戸時代には、各藩が独自の紙幣を発行していました。

ところが藩そのものを廃止してしまえば、

「その藩が出した紙幣はこれからどうなるのか」

という問題が当然出てきます。

『太政官日誌』には、この問題についての指示も掲載されています。

そこでは、

貨幣は天下で一定のものであるべきなのに、従来は諸藩がさまざまな紙幣を発行しており、通用価値がばらばらで不都合である

という趣旨が述べられています。

そして廃藩に伴い、

7月14日の相場を基準に、後ほど引き換える

としています。

ここまで同じ号に入っているのは面白いところです。

藩をなくすという政治制度の変更は、その瞬間に、

人事だけでなく、通貨の問題

まで発生させています。

廃藩置県が単なる行政区画の名前変更ではないことが、よく分かります。

一冊を通して読むと、廃藩置県が「手続き」として見えてくる

今回の文書を順番に並べると、こうなります。

まず詔で、

「藩ヲ廃シ県ト為ス」

と宣言する。

知藩事に勅語を伝える。

東京にいる知藩事を免官する。

翌日には、国元にいる知事の名代へ免官を伝える。

御布告を出す。

大参事以下には、当面これまで通り仕事を続けるよう指示する。

元知事には、9月中に東京へ来るよう命じる。

そして、各藩の紙幣についても引換方針を示す。

こうして見ると、廃藩置県は、

「藩を県に変えました」

という一文で終わる出来事ではありません。

人をどうするか。

仕事をどう引き継ぐか。

お金をどうするか。

制度変更に伴う実務を一つずつ処理していることが、『太政官日誌』から見えてきます。

なぜ廃藩置県をしたのか

では、結局なぜ廃藩置県を行ったのでしょうか。

今回の資料から確認できる範囲では、詔自身が理由を述べています。

名実を一致させる。

政令を一つにする。

冗を去り簡に就く。

有名無実の弊を除く。

政令が多岐に分かれる問題をなくす。

これが当日の詔に記された説明です。

ただし、政治政策には表に出された理由と、政策決定に至る複雑な背景があります。

明治政府の中央集権化。

軍事制度。

財政。

旧藩主との関係。

そうした点まで考えるには、今回の『太政官日誌』だけでは足りません。

だからこの記事では、

「廃藩置県の真の目的はこれだった」

とは決めません。

まず、当日の政府文書が自ら何と説明しているのかを確認するところまでにします。

「廃藩置県の日」を一日の出来事として見ない

明治4年7月14日は、年表では一行です。

「廃藩置県」

と書かれています。

しかし公文書を開いてみると、その一行の中にいくつもの処理があります。

詔を出す。

知藩事を免官する。

地方行政の実務を継続させる。

旧知事を後日東京へ呼ぶ。

藩札の整理を始める。

しかも今回確認した『太政官日誌』自体が、7月14日から17日までの四日間を一つの号にまとめています。

つまり、実際の制度変更は「14日に一言命令して終了」ではありません。

新しい仕組みへ移るための手続きが続いている。

資料を一冊通して読むと、その姿がかなり具体的に見えてきます。

今回確認できたこと

今回読んだ『太政官日誌』では、明治4年7月14日の詔に、

「藩ヲ廃シ県ト為ス」

と記されています。

詔はその趣旨として、

冗を去り簡に就くこと。

有名無実の弊を除くこと。

政令多岐の憂をなくすこと。

を掲げています。

同じ号には、

鹿児島・山口・佐賀・高知の知事への勅語。

熊本・名古屋・徳島・鳥取の知事への別の勅語。

在京知藩事への免官。

翌日の、在藩知事の名代への免官通知。

「藩ヲ廃シ県ヲ被置候事」という布告。

大参事以下に当面これまで通り仕事を続けさせる指示。

元知事を9月中に東京へ呼び戻す指示。

藩札を7月14日の相場で引き換える方針。

が並んでいます。

つまり廃藩置県の日に命じられていたのは、

「藩を県にする」ことだけではありませんでした。

その変更を実際に動かすための、人事・行政・通貨に関する指示まで同じ公文書の束に入っています。

教科書の一行を実際の公文書までたどってみると、廃藩置県が「宣言」だけではなく、かなり具体的な行政手続きだったことが見えてきます。

今回確認した資料について

この記事で直接確認したのは、1876年刊『太政官日誌』の明治4年第四十五号です。

この号は7月14日から17日までを収録しています。

今回の記事では、その中に掲載された詔、勅語、御布告、御沙汰書などを読みました。

府県の具体的な数、その後の府県統廃合、八藩が二組に分けられている理由、廃藩置県へ至る政治的背景、その後の元知事の処遇などについては確認していません。

したがってこの記事では、廃藩置県当日の公文書に何が書かれているかを中心に扱っています。

参考資料

  • 『太政官日誌』明治4年 第三十八号〜第四十七号、太政官、1876年

    • 第四十五号「自七月十四日至十七日」

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