「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧けたることも無しと思へば」
藤原道長の歌として、あまりにも有名な一首です。
平安時代の権力者・道長が、自分の栄華を満月になぞらえて誇った歌――そんな説明とともに覚えている人も多いでしょう。
ところで、この歌は誰が書き残したのでしょうか。
道長自身には『御堂関白記』という日記があります。
しかも、この歌を詠んだとされる寛仁二年十月十六日の記事も残っています。
それなら、『御堂関白記』にこの有名な歌が書いてあるのだろう。
そう思って二つの日記を開いてみると、少し意外な結果になりました。
今回確認した『御堂関白記』の記事には、道長が和歌を詠んだことは書かれています。ところが、その歌詞は書かれていません。
「この世をば」の文句を残したのは、同じ席にいた藤原実資の『小右記』でした。
今回は同じ一日を記した二つの日記を並べて読んでみます。
寛仁二年十月十六日は、何の日だったのか
まず、この日の背景から確認します。
『御堂関白記』の寛仁二年七月二十八日条には、十月十六日に向けた準備が記されています。
吉平を召し、
立后の日
を勘申させ、その日を十月十六日に定めた。
そして惟憲朝臣に定文を書かせたとあります。
つまり、十月十六日は偶然宴会が開かれた日ではありません。
前もって日程が決められていた、重要な儀式の日でした。
そして実際に十月十六日の『御堂関白記』を見ると、立后の宣命をはじめ、儀式の進行がかなり細かく記されています。
誰がどこに立ったのか。
宣命を承る大臣をどうしたのか。
列の順番はどうだったのか。
道長は、この日の儀式をかなり詳しく日記に残しています。
その長い一日の最後に、例の和歌が登場します。
道長本人の日記には「和歌を詠んだ」とだけある
今回確認した『御堂関白記』は、1929年に正宗敦夫が編んだ刊本です。
十月十六日の長い記事を追っていくと、宴の場面で短い記述が現れます。
「余、和歌を読み、人々これを詠ず」
という内容です。
「余」は日記を書いている本人。
つまり道長です。
道長自身の日記にも、この日に自分が和歌を詠んだことは記録されています。
しかし、今回確認した寛仁二年十月十六日条では、
何という歌を詠んだのか、その文句までは書かれていません。
これが面白いところです。
日本史上でも特に有名な和歌なのに、詠んだ本人の日記では、
「和歌を詠んだ」
という事実だけが残っています。
なぜ歌詞を書かなかったのでしょうか。
恥ずかしかったのか。
書く必要がないと思ったのか。
ほかに理由があったのか。
それは分かりません。
日記は理由を説明してくれないので、この記事でも推測しません。
「この世をば」を書き残したのは藤原実資
では、有名な歌詞はどこに残っているのでしょうか。
もう一つの日記、『小右記』です。
『小右記』を書いたのは藤原実資。
道長と同じ時代を生きた公卿です。
今回使用したのは、1935年刊『史料大成 小右記 二』。
こちらにも、同じ寛仁二年十月十六日の記事があります。
そして宴の場面になると、『御堂関白記』よりはるかに詳しいやり取りが記されています。
まず実資自身が、道長から呼ばれます。
『小右記』によれば、太閤が下官を招き、
「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」
という趣旨を伝えたとあります。
「下官」は、実資が自分自身をへりくだって呼んだ言葉です。
つまり道長は実資に、
「これから歌を詠むから、必ず返歌しなさい」
と求めたわけです。
実資も、それに応じるつもりだと答えています。
道長は「前もって作った歌ではない」と断っている
そして道長が歌を詠む直前、『小右記』にはもう一つ興味深い言葉が残っています。
道長は、
「誇りたる歌がある。ただし宿構に非ず」
という趣旨のことを述べたと記されています。
「宿構に非ず」。
つまり、前もって準備しておいた歌ではないという断りです。
これをどこまで文字どおり受け取るべきかは別として、この言葉自体が実資の日記に書き残されています。
そして、そのあとに例の歌が登場します。
「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧けたることも無しと思へば」
私たちが現在知っている「この世をば」の歌は、今回確認した資料では、ここに全文が残っています。
つまり、
道長の歌なのに、歌詞を伝えているのは道長の日記ではなく、実資の日記なのです。
「必ず返歌せよ」と言われた実資は、歌を返さなかった
さらに面白いのは、このあとです。
道長から、
「必ず和すべし」
と求められていた実資。
普通に考えれば、道長の歌に対して返歌をする場面です。
ところが実資は、歌を返しませんでした。
『小右記』によれば、実資は、
御歌は優美であり、酬い答える方法がない。満座ただこの御歌を誦すべきだ
という趣旨を答えます。
つまり、
「この歌には返歌できません。みんなでこの歌を唱えましょう」
と提案したわけです。
現在の感覚で読むと、なかなか巧みな返しです。
相手は当時絶大な力を持っていた道長。
しかも本人から「必ず返歌せよ」と言われています。
そこへ、歌で対抗するのではなく、
「素晴らしすぎて返せない」
という形で応じています。
実資は中国の故事まで持ち出した
実資は、ただ「返せません」と言っただけではありません。
前例を持ち出します。
『小右記』には、元稹の菊の詩に対して、白居易が和さず、深く賞歎したという故事が記されています。
要するに、
優れた詩に対して、必ずしも別の詩で返す必要はない
という先例を示したわけです。
そして実資自身も、道長の歌を何度か吟詠したとしています。
すると道長も納得し、
特に返歌することを求めなかった
と記されています。
道長の有名な一首だけを見ると、一方的に権力者が自分の栄華を歌った場面に見えます。
しかし『小右記』を続けて読むと、実際の記録には道長と実資のやり取りがあります。
歌の周囲まで読むと、場面の印象はかなり変わります。
宴の最後は「月が明るい夜」だった
『小右記』は、この日の終わりまで記しています。
宴が終わる頃には夜も深くなっていました。
そして、
月が明るいなか、それぞれ酔いを扶けられて退出した
という趣旨で記事が終わります。
「望月」を歌った夜に、月が明るかった。
つい出来すぎた場面のように感じますが、少なくとも『小右記』にはそのように記されています。
歌だけを教科書で読むと、
「満月=道長の栄華」
という象徴的な部分に目が向きます。
しかし実資の日記を読むと、
呼び出される。
返歌を求められる。
実資が返さず、全員で歌を吟じる。
道長が納得する。
そして月明かりの中、皆が酔って帰る。
という、ひと続きの宴席の記録として残っています。
同じ一日なのに、二人の日記が残したものは違う
ここで二つの日記を並べてみます。
『御堂関白記』は、道長本人の日記です。
この日の儀式についてかなり詳細に書いています。
そして、
自分が和歌を詠んだこと
も記しています。
しかし、今回確認した記事には歌詞がありません。
一方の『小右記』。
こちらを書いたのは、その場に同席していた藤原実資です。
実資は、
道長に呼びかけられたこと。
返歌を求められたこと。
道長が「前もって作ったものではない」と断ったこと。
「この世をば」の全文。
実資が返歌しなかったこと。
皆で歌を吟詠したこと。
道長が納得したこと。
宴の終わり。
まで記しています。
同じ一日を記した日記なのに、何を残すかがまるで違うのです。
本人の日記だから、いちばん詳しいとは限らない
歴史資料を読むとき、
「本人が書いたものなら、本人について最も詳しく分かる」
と思いたくなります。
もちろん本人の日記は非常に重要な資料です。
しかし、今回の「この世をば」の例は、その考えが必ずしも単純ではないことをよく示しています。
道長自身は、歌を詠んだことだけを書いた。
実資は、その歌の全文と周囲のやり取りを書いた。
結果として1000年後の私たちは、第三者の日記のおかげで道長の有名な一首を読むことができます。
本人にとっては記録する必要がないことでも、隣にいた人にとっては書き残したい出来事だったのかもしれません。
もっとも、それも推測です。
確実に言えるのは、二つの日記に残っている情報が違うということです。
「この世をば」は、本当に権力を誇った歌なのか
ここまで読むと、もう一つ気になる問題があります。
「この世をば」は、
道長が絶頂期の権力を誇った歌
として有名です。
一方で、娘の立后という宴席での即興的な歌だったという場面も、『小右記』から見えてきます。
では道長は、本気で「この世は自分のものだ」と宣言したのでしょうか。
それとも宴席での座興だったのでしょうか。
今回の記事では、そこには答えを出しません。
『小右記』には「誇りたる歌」と記されていますが、それだけで道長の内心を確定することはできません。
今回調べた目的は、歌の意味を決めることではなく、
この有名な歌を誰が、どのような場面として書き残したのか
を確認することだからです。
「御堂関白記」という名前にも少し注意が必要
今回二つの日記を読んでいると、もう一つ細かな点に気づきます。
『御堂関白記』という題名を見ると、
「関白だった道長の日記」
というイメージを持ちます。
しかし、この寛仁二年十月十六日の記事では、日記を書いている人物と摂政は別々に書かれています。
『小右記』も太閤と摂政を別の人物として扱っています。
つまり、この日の道長を単純に「摂政として」と説明すると、史料の記述とはずれてしまいます。
現在使われている日記の名称と、その日の実際の官職は分けて考える必要があります。
誰が摂政だったのかについては、今回確認した箇所には名前がありません。
そのためこの記事では、そこまでは補いません。
「この世をば」は、実資が残してくれた歌だった
今回確認した内容をまとめます。
寛仁二年十月十六日。
この日は立后の儀式が行われました。
道長本人の『御堂関白記』には、
道長が和歌を詠み、人々がそれを詠じた
ことが記されています。
しかし、今回確認したその日の記事には歌の全文はありません。
一方、藤原実資の『小右記』では、道長が実資に、
「和歌を詠むから必ず和せよ」
と求めた場面が記されています。
そのあとに、
「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧けたることも無しと思へば」
という歌が残されています。
実資は返歌をせず、代わりに皆で道長の歌を吟じることを提案しました。
そして自らも何度も吟じ、道長もそれを受け入れた。
今回読んだ資料では、そのような流れになっています。
つまり、現在まで伝わる道長の有名な歌の文句を記録したのは、
道長本人ではなく、その場にいた藤原実資でした。
「誰が詠んだのか」と「誰が書き残したのか」は同じとは限らない。
この一首は、それがとても分かりやすい例です。
今回確認した資料について
この記事では、『御堂関白記』寛仁二年七月二十八日および十月十六日の記事と、『小右記』寛仁二年十月十六日の記事を確認しました。
『御堂関白記』については1929年刊の正宗敦夫編本、『小右記』については1935年刊『史料大成 小右記 二』を使用しています。
両日記の全巻、別写本や別刊本との本文比較は今回行っていません。
また、「この世をば」の意味や道長の心境についての後世の研究も扱っていません。
この記事で確認したのは、二つの日記が同じ日の出来事をそれぞれどう書き残しているかという点です。
参考資料
-
『御堂関白記』下巻 藤原道長著・正宗敦夫編、1929年
-
『史料大成 小右記 二』藤原実資著・笹川種郎編輯・矢野太郎校訂、内外書籍株式会社、1935年


