源頼朝と源義経。
兄の頼朝が、弟の義経を追いつめていった――。
二人の決裂は、そんな流れで語られることが多いと思います。
ところが、文治元年十月の記録を開くと、少し意外な文書が出てきます。
追討される側として名前が書かれているのは、頼朝です。
九条兼実の日記『玉葉』には、
源義経・源行家らに、源頼朝を追討させる
という内容の宣旨が写されています。
しかし、その約一か月後。
今度は義経と行家を捜し出し、捕らえる責任と権限が頼朝側へ移ります。
短い期間に、立場が完全に逆転しています。
では、その間に何があったのでしょうか。
今回の記事では、決裂の原因を一つに決めることはしません。
代わりに、
同時代の日記『玉葉』は何と記したのか。
そして、
後世に編纂された『吾妻鏡』は同じ時期をどう描いたのか。
二つの史料を並べてみます。
- 文治元年十月、義経は「頼朝を追討する側」だった
- これは兼実の感想ではなく、宣旨の文面だった
- なぜ義経の要求を受け入れたのか
- だからといって「朝廷は義経派だった」とは言えない
- 『玉葉』には「人から聞いた話」も混じっている
- 兼実は「安堵すべき世ではない」と書いた
- ところが約一か月後、立場が逆転する
- 十月と十一月、宣旨の奉者は同じ名前
- この十一月の宣旨をどう読むかは、研究でも意見が分かれた
- 三田武繁は「名称より、権限の委任が重要」と考えた
- 『吾妻鏡』では、頼朝は「動揺しなかった」
- 翌日には、義経との縁で名簿から外された人物もいる
- 後の『吾妻鏡』では「義経が逆心を顕した」と書かれる
- 『玉葉』と『吾妻鏡』は同じ種類の史料ではない
- 「吾妻鏡は全部後から作った話」とも言えない
- 腰越状を見ると、義経自身はどう訴えたことになっているか
- 腰越状には「骨肉同胞の儀は空しい」とある
- 腰越状そのものについても慎重に見る必要がある
- では、頼朝と義経はなぜ決裂したのか
- それでも、史料を並べると一か月の急変が見えてくる
- 「頼朝が義経を追った」だけでは見えないもの
- 今回確認できたこと
- 今回確認した資料について
- 参考資料
文治元年十月、義経は「頼朝を追討する側」だった
まず『玉葉』です。
書いたのは九条兼実。
朝廷の中枢にいた公卿で、頼朝・義経と同じ時代を生きた人物です。
文治元年十月十九日条には、前日の十八日に出された宣旨が収録されています。
そこには、
従二位源頼朝卿が武威を振るい、朝廷の法を軽んじているため、前備前守源行家・左衛門少尉源義経らに頼朝を追討させる
という内容が記されています。
つまりこの宣旨だけを見ると、
頼朝=追討される側
義経・行家=追討する側
です。
現在よく知られている「頼朝が義経を追う」という構図とは逆です。
これは兼実の感想ではなく、宣旨の文面だった
ここは重要です。
『玉葉』にこの内容があるからといって、
「九条兼実が頼朝を討つべきだと考えていた」
という話ではありません。
十九日条によれば、この宣旨は隆職という人物から送られてきたもので、兼実がその文面を書き写しています。
つまり、
兼実自身の意見ではなく、朝廷から出された文書そのものが日記の中に保存されている
わけです。
奉者として記されているのは、
蔵人頭右大弁兼皇后宮亮藤原光雅。
上卿は左大臣です。
『玉葉』という日記の中に、公文書がそのまま入り込んでいる形になります。
なぜ義経の要求を受け入れたのか
では、朝廷はなぜ頼朝追討の宣旨を出したのでしょうか。
『玉葉』十九日条には、その前の朝廷内のやり取りも記されています。
一昨日、左大臣と内大臣が院へ参り、追討について協議した。
内大臣は、自分一人では判断できないと述べます。
それに対して左大臣は、早く宣旨を出すべきだという趣旨を述べました。
その理由として記されているのが、
当時、京都にいる武士は義経ただ一人である
ということです。
義経の申し出に背いて大事件になった場合、
誰が義経に対抗できるのか。
そういう現実的な問題があった、と『玉葉』は記しています。
これはなかなか生々しい話です。
「朝廷が義経の正義を認めたから頼朝追討を命じた」
というような説明ではありません。
少なくともこの記録では、
京都に軍事的に対抗できる人間がいない
という事情が議論されています。
だからといって「朝廷は義経派だった」とは言えない
ここで話を広げすぎないようにします。
この一件から、
「朝廷は義経を全面的に支持していた」
「後白河院は頼朝を倒そうとしていた」
とまで言うことはできません。
今回確認できるのは、
頼朝追討の宣旨が出され、その前の議論として、京都にいる武士が義経一人だったという話が『玉葉』に記されている
というところです。
朝廷内部の政治的な思惑全体を、この一条だけから決めることはできません。
『玉葉』には「人から聞いた話」も混じっている
『玉葉』は同時代の日記ですが、書いてあること全部を兼実自身が目撃したわけではありません。
本文には、
「傳聞」
「人云」
「或人云」
といった言葉が出てきます。
つまり、
「人から聞いた」
と明示している情報があります。
この区別は大事です。
たとえば十月の記事には、武士が院御所を襲うという知らせが入り、
頼朝の郎従で武蔵国の小玉党三十騎ほどが義経を攻め、行家が馳せ向かって追い散らした、
という内容があります。
しかし、これは伝聞として書かれています。
兼実本人が戦闘を見たわけではありません。
兼実は「安堵すべき世ではない」と書いた
その知らせを受け、兼実自身の言葉も記されています。
院御所を襲うなどというのは問題であり、
「世上の体、安堵すべき世に非ず」
という趣旨を書いています。
都の中で武士同士の衝突が起き、院まで巻き込まれる可能性がある。
公卿の立場から見れば、かなり不安定な状況だったのでしょう。
一方、頼朝追討の宣旨が出たあとについても、伝聞として、
武士を募っても多くは応じず、近江の武士らも義経に味方せず引き退いた、
という内容が記されています。
ただし、具体的に何人が義経側につき、何人が離れたのかまでは書かれていません。
「義経に誰も味方しなかった」
と数字以上の話に広げることはできません。
ところが約一か月後、立場が逆転する
そして大きな転換が起こります。
文治元年十一月の宣旨です。
今回この文面については原典ではなく、三田武繁の論文に引用されたものを確認しました。
そこでは、義経と行家が野心を抱いて西国へ向かい、摂津国から船出しようとしたところ逆風に遭った、とされています。
二人が海で亡くなったという話もあるが、
本当に死んだのかどうかは確かではない。
そこで、
頼朝に命じて、その居場所を捜し出し、義経・行家を捕らえさせる
という内容になります。
十月には義経が頼朝を追討する側でした。
それが約一か月後には、
頼朝が義経を捜し捕らえる側
になっています。
かなり急激な逆転です。
十月と十一月、宣旨の奉者は同じ名前
細かなところですが、もう一つ目に止まる点があります。
十月の頼朝追討宣旨で奉者として出てきたのは、
藤原光雅。
十一月の宣旨でも、三田論文の引用では同じ藤原光雅の名が記されています。
ただし、
「光雅が方針転換を主導した」
という意味ではありません。
奉者として同じ人物名が記録されているだけです。
ここから個人の考えや政治的な意図まで推測することは避けます。
この十一月の宣旨をどう読むかは、研究でも意見が分かれた
興味深いことに、この十一月の宣旨については、研究者の間でも読み方が分かれてきました。
三田武繁は、この問題が文治の守護・地頭問題をめぐる重要な論点になってきたと説明しています。
たとえば中田薫は、
宣旨に「追討」という言葉がないことなどから、これは追捕の宣旨だと理解し、頼朝が日本国惣追捕使に補任されたと考えました。
一方、五味文彦は、
これを義経・行家追討の宣旨と解し、頼朝は追討使になったと説明したと、三田は整理しています。
同じ文書でも、
追捕なのか、追討なのか
によって、そのとき頼朝が得た権限の理解が変わるわけです。
三田武繁は「名称より、権限の委任が重要」と考えた
では三田自身はどう考えたのでしょうか。
三田は、当時「追捕」と「追討」が厳密に区別されていたとは言いにくいため、
頼朝が得た地位の名称を過度に問題にすることにはあまり意味がない、
という趣旨を述べています。
そして重要なのは、
義経・行家の追討(追捕)について、その責任と権限を頼朝へ委ねたこと
だと整理しています。
つまり、
「頼朝が何という役職名になったのか」
よりも、
義経・行家を追うことを朝廷が頼朝側へ任せた
という現実的な変化を重視しています。
『吾妻鏡』では、頼朝は「動揺しなかった」
ここで史料を『吾妻鏡』へ移します。
文治元年十月二十二日条。
京都から到着した人物が伝えた風聞説として、
十七日に土佐房が戦って成功せず、
行家・義経らが頼朝追討の宣旨を申し下した、
という話が記されています。
ここまでは『玉葉』の記録と重なる部分があります。
しかし、その直後の頼朝の描かれ方が印象的です。
頼朝は、
まったく動揺することなく、御堂供養の準備以外には何もしなかった
という趣旨で記されています。
同じ頃。
京都にいた九条兼実は、
安堵できる世ではない
と書いている。
一方、『吾妻鏡』の頼朝は、
動揺しなかった
と描かれる。
同じ出来事を記していても、見える景色がかなり違います。
翌日には、義経との縁で名簿から外された人物もいる
『吾妻鏡』の翌二十三日条も見てみます。
伊勢国から、
義経が宣旨を称して近国の兵を集め、経俊を討つため守護所を囲んだ、
という知らせが届きます。
これについて頼朝側は、
「この事、実証にあらざるか」
という趣旨で疑問を示したと記されています。
そして同じ日、翌日の御堂供養に参加する人物が選ばれます。
その中で、河越小太郎重房は当初参加者に入っていましたが、
義経の縁者であることを理由に外された
とされています。
頼朝と義経の関係悪化が、単なる兄弟間の感情ではなく、
儀式に誰を出すかという実務上の人選にも影響している
ことが分かります。
後の『吾妻鏡』では「義経が逆心を顕した」と書かれる
さらに翌年。
『吾妻鏡』文治二年二月の記事には、前年の出来事を振り返る文章があります。
そこでは、
去年、義経が逆心を顕したとき
という表現が使われています。
そして、その際に追討の宣旨が出たのは、ある人物の議奏によるものだったと風聞した、としています。
ここが『玉葉』と並べて読むと非常に面白いところです。
文治元年十月の『玉葉』に写された宣旨では、
追討される人物は頼朝。
ところが後の『吾妻鏡』では、
「義経が逆心を顕したとき」
という言葉で同じ時期が振り返られています。
どちらが「正しい」という話ではありません。
資料が立つ場所と、書かれた時期が違います。
『玉葉』と『吾妻鏡』は同じ種類の史料ではない
ここを分けて考える必要があります。
『玉葉』は九条兼実が事件と同じ時代に書いていた日記です。
一方、『吾妻鏡』は事件から後の時代に鎌倉幕府側で編纂された歴史書です。
山下宏明は『吾妻鏡』を、
鎌倉幕府の半ば公的な歴史
として捉えています。
そして歴史記述は、編者が何を選び、どう配置するかによって大きく変わるという点を論じています。
山下が具体的に比較しているのは『平家物語』と『吾妻鏡』ですが、
同じ文書でも置かれる物語の中で意味が変わる、という指摘は興味深いものです。
ただし、山下が今回の『玉葉』と『吾妻鏡』の記事を直接比較しているわけではありません。
そこは分けておきます。
「吾妻鏡は全部後から作った話」とも言えない
逆に、
「『吾妻鏡』は後代の編纂物なのだから信用できない」
と単純に片づけることもできません。
後の資料であることと、内容がすべて創作であることは別です。
三田武繁は、別の文治元年十一月二十八日条について、
『吾妻鏡』の記事が『玉葉』の記事を利用して作られた可能性が高い
という研究上の理解を紹介しています。
つまり『吾妻鏡』の編者が、先行する記録を利用して記事を作った可能性も論じられています。
ただし、これは十一月二十八日条についての話です。
今回取り上げた十月二十二日条や文治二年二月の記事まで同じ方法で作られたと証明されたわけではありません。
腰越状を見ると、義経自身はどう訴えたことになっているか
義経と頼朝の決裂を考えるとき、避けて通りにくいのが腰越状です。
『吾妻鏡』元暦二年五月二十四日条に収められています。
そこでは、義経が平氏を破り、前内府を連れて鎌倉へ来たものの、
日頃からの「不儀の聞こえ」によって頼朝の不興を買い、
鎌倉へ入ることを許されなかった
と記されています。
義経は腰越に滞在し、愁いのあまり大江広元へ一通の文書を託したとされます。
広元はそれを読みますが、
明確な返答はなく、後で沙汰する
という扱いになっています。
腰越状には「骨肉同胞の儀は空しい」とある
『吾妻鏡』が載せる腰越状では、義経側の訴えが長く記されています。
頼朝の代官の一人として朝敵を討ち、大きな功績を立てた。
それなのに讒言によって功績を認められない。
自分には罪がないのに咎められ、功があるのに勘気を受けた。
そして、
「骨肉同胞の儀、既に空しきに似たり」
という趣旨の言葉まで出てきます。
兄弟関係が失われたようだ、と訴えているわけです。
ただし、この腰越状が現在伝わる文章そのままの形で義経自身によって書かれたのかという問題は別にあります。
腰越状そのものについても慎重に見る必要がある
山下宏明は腰越状について、
後世の文飾が加わっている可能性はあるものの、
現実に義経が提出した何らかの文書が存在し、『吾妻鏡』がそれを取り込んだのではないか
という趣旨を述べています。
つまり、
「完全な偽作」
とも、
「現在の文章が一字一句そのまま義経の手紙」
とも決めていません。
今回の記事でも同じ立場を取ります。
腰越状の原本や、真正性をめぐる研究全体までは確認していないためです。
では、頼朝と義経はなぜ決裂したのか
ここまで読めば、一番知りたくなるのは当然ここでしょう。
なぜ二人は決裂したのか。
無断任官だったのか。
頼朝への讒言だったのか。
恩賞をめぐる問題なのか。
義経と院の接近を頼朝が警戒したのか。
いろいろな説明があります。
しかし、今回読んだ資料だけで、その中から一つを選ぶことはしません。
三田武繁の論文は守護・地頭問題が中心です。
山下宏明の論文は『吾妻鏡』の歴史記述が主題です。
どちらも、
「頼朝と義経はなぜ決裂したのか」
を直接検討するための論文ではありません。
だから、一般的な説明を埋め込んで結論だけ作ることは避けます。
それでも、史料を並べると一か月の急変が見えてくる
今回確認したことだけでも、かなり興味深い流れがあります。
文治元年十月。
『玉葉』には、
義経・行家に頼朝を追討させる
という宣旨が収録されています。
朝廷内部では、
京都にいる武士が義経しかいない
という議論も記されていました。
ところが宣旨を出しても、義経に応じる武士は多くなかったという伝聞も残っています。
そして約一か月後。
今度は、
義経・行家を捜し出し捕らえる責任と権限が頼朝へ委ねられる。
さらに後代の『吾妻鏡』になると、この時期は、
「義経が逆心を顕したとき」
という言葉で振り返られています。
同じ文治元年という短い期間でも、
誰が朝敵として扱われ、誰が追う側に置かれるのかが急速に変化している
ことが分かります。
「頼朝が義経を追った」だけでは見えないもの
結果だけを知っている私たちは、
「義経が頼朝に追われた」
ところから過去を見てしまいます。
しかし文治元年十月の時点まで戻ると、
一度は義経に頼朝追討の宣旨が与えられていました。
つまり、結末を知っている現在から見るほど、
当時の状況は一直線ではなかったということです。
そして、その揺れを残しているのが同時代の日記『玉葉』です。
一方、後世に編纂された『吾妻鏡』では、義経の「逆心」という言葉を使って過去が整理されています。
だからこそ、
一つの史料だけで物語を作らず、違う立場・違う時期の記録を並べて読む
意味があります。
今回確認できたこと
今回の資料をまとめます。
『玉葉』文治元年十月十九日条には、前日十八日の宣旨として、
源義経・源行家らに源頼朝を追討させる
という内容が収録されています。
その前の朝廷内の議論として、京都にいる武士は義経一人であり、その申し出に背いて事が起これば対抗する者がいないという趣旨も記されています。
一方、その後の十一月の宣旨では、
義経・行家を捜し出して捕らえる責任と権限が頼朝へ委ねられます。
『吾妻鏡』文治元年十月二十二日条では、頼朝追討の宣旨が出たとの知らせに対し、頼朝は動揺せず御堂供養の準備をしていたと記されています。
そして文治二年には、前年を、
「義経が逆心を顕したとき」
という言葉で振り返っています。
『玉葉』と『吾妻鏡』。
同じ時期について書いていても、残している言葉も、人物の見え方も同じではありません。
今回確認できたのは、
「義経が頼朝に追われた」という結末に至る直前、一度は頼朝のほうが追討対象となり、その後短期間で立場が逆転していた
ということです。
その急変がなぜ起きたのか。
そこは、さらに別の資料と研究を読むべき問題として残します。
今回確認した資料について
この記事では、『玉葉』文治元年十月の記事、『吾妻鏡』文治元年十月および文治二年の記事、腰越状に関する部分を確認しました。
十一月の宣旨については原典ではなく、三田武繁「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」に引用された文面を利用しています。
また、中田薫・五味文彦の説についても三田論文を通して確認したもので、それぞれの原論文までは読んでいません。
『吾妻鏡』の編纂と腰越状については、山下宏明「関東の〈歴史〉記述-『吾妻鏡』頼朝将軍記をめぐって-」を参照しました。
頼朝と義経の決裂原因そのものについては、今回は研究を追っていません。
参考資料
-
『玉葉:一名・玉海』第3 藤原兼実著・国書刊行会校、1907年
-
『吾妻鏡』第1・第2 与謝野寛ほか編纂・校訂、日本古典全集刊行会、1927年
-
三田武繁「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」『史学雑誌』第100編第1号、1991年
-
山下宏明「関東の〈歴史〉記述-『吾妻鏡』頼朝将軍記をめぐって-」『日本文学』第34巻第5号、1985年


