大仙陵古墳と仁徳天皇陵|百舌鳥耳原中陵から大山陵まで名前をたどる

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大阪府堺市にある、日本最大級の前方後円墳。

この巨大古墳には、いくつもの名前があります。

大仙陵古墳。

仁徳天皇陵古墳。

そして宮内庁が使っている、

百舌鳥耳原中陵。

同じ場所を指しているのに、なぜ名前が違うのでしょうか。

古い史料まで遡ってみると、最初から現在の「仁徳天皇陵古墳」という名前が書かれていたわけではありません。

『日本書紀』には「百舌鳥耳原」という地名が現れます。

『延喜式』には「百舌鳥耳原中陵」。

さらに後世の『山陵志』には、土地の人々がその陵を「大山陵」と呼んでいたという記録があります。

今回は、

百舌鳥耳原
→ 百舌鳥耳原中陵
→ 大山陵

という、史料に現れる名前を順番に追ってみます。

ただし、「これらがすべて確実に現在の大仙陵古墳を指す」と最初から決めて読むことはしません。

それぞれの資料に、実際に何と書かれているのかを見ていきます。

『日本書紀』に現れる「百舌鳥耳原」

まず『日本書紀』です。

今回確認したのは、1901年刊『国史大系』第1巻に収録された本文です。

巻十一、仁徳天皇六十七年冬十月の記事。

ここには、仁徳天皇が河内の石津原へ行き、陵を造る場所を定めたことが記されています。

そして丁酉の日に、

陵を築き始めた

とあります。

ここまでは陵の造営についての記述です。

ところが、その直後に少し不思議な話が続きます。

鹿の耳から百舌鳥が飛び出した

『日本書紀』によれば、陵を造っている最中、野の中から鹿が走ってきました。

鹿は工事をしていた人々の中へ入り、そのまま倒れて死んでしまいます。

人々が不思議に思って傷を調べると、

鹿の耳から百舌鳥が飛び出した。

そこで、その場所を、

「百舌鳥耳原」

と呼ぶようになった。

そのような地名由来の説話が記されています。

現在も堺市には「百舌鳥」という地名があります。

しかし今回の記事で重要なのは、現在の地名との対応を先に決めることではありません。

まず、仁徳天皇の陵を造る記事の中で、「百舌鳥耳原」という名称が『日本書紀』に登場するということです。

ただし『日本書紀』は「この古墳」とまでは書いていない

ここはかなり重要です。

『日本書紀』には、

河内の石津原。

陵地を定めた。

陵を築き始めた。

そして「百舌鳥耳原」と呼ばれるようになった。

という記述があります。

しかし、

「現在の堺市大仙町にあるこの前方後円墳である」

と位置を特定する文章があるわけではありません。

当然ながら現在の地図も、古墳番号もありません。

つまり『日本書紀』から直接分かるのは、

仁徳天皇の陵について語る記事と「百舌鳥耳原」という地名が結びついている

ところまでです。

『延喜式』になると「百舌鳥耳原中陵」となる

次に『延喜式』を見ます。

今回確認したのは、1931年刊『延喜式:校訂』下巻です。

巻二十一の諸陵式には、歴代天皇などの陵墓について、

陵の名称。

所在する国・郡。

兆域の広さ。

陵戸。

などが列挙されています。

その中に仁徳天皇の陵もあります。

名称は、

「百舌鳥耳原中陵」

です。

『日本書紀』に出てきた「百舌鳥耳原」が、ここでは陵そのものの名称に入っています。

なぜ「中陵」なのか

「百舌鳥耳原中陵」。

ここで気になるのが「中」です。

中があるなら、北や南もあるのでしょうか。

すぐ後を見ると、本当にあります。

履中天皇について、

百舌鳥耳原南陵。

反正天皇について、

百舌鳥耳原北陵。

と記されています。

つまり『延喜式』の諸陵式では、

百舌鳥耳原中陵
百舌鳥耳原南陵
百舌鳥耳原北陵

という三つの陵が並んでいます。

現在「百舌鳥古墳群」と呼ばれている地域を考えるうえで、とても興味深い記述です。

少なくともこの時点では、「百舌鳥耳原」という場所の中で三つの陵を中・南・北に分けていることが分かります。

『日本書紀』は「河内」、『延喜式』は「和泉」

ところが、ここでもう一つ違いが出てきます。

『日本書紀』では、陵地を定めた場所を、

河内の石津原

としています。

一方、『延喜式』の諸陵式では、

百舌鳥耳原中陵を、

和泉国大鳥郡

にあるとしています。

河内と和泉。

国名が違います。

これだけを見ると、

「別の場所なのでは?」

と思いたくなります。

しかし、後に読む『山陵志』は、この違いについて説明を加えています。

『山陵志』は「国境のほうが変わった」と説明する

蒲生君平が著した『山陵志』は、各地の陵墓について古い史料や現地の状況を調べた書物です。

今回確認した版は、国立国会図書館の書誌でも刊年不明となっています。

この『山陵志』は、『延喜式』の百舌鳥耳原中陵の記事を引用しています。

そのうえで、

天平宝字二年に河内国の一部を分けて和泉国が置かれ、百舌鳥は和泉側へ入った

という趣旨で説明しています。

つまり『山陵志』の理解では、

陵の場所が移ったのではなく、

後から国の区分が変わった

ということになります。

ここはあくまで『山陵志』による説明です。

今回の記事では、この国境変更自体を別の史料まで遡って検証していません。

そして「大山陵」という名前が出てくる

今回、最も面白かったのがこの部分です。

『山陵志』は『延喜式』の「百舌鳥耳原中陵」を引いたあと、現地について触れています。

そして、

現在に至るまで、その土地の人々はこれを仰いで「大山陵」と呼んでいる

という趣旨を書いています。

ここで、

大山陵

という名前が出てきます。

現在使われる「大仙陵古墳」や「大山古墳」という呼び方を考えると、かなり目を引く記述です。

古い官制上の陵名は、

百舌鳥耳原中陵。

一方、現地では、

大山陵。

二つの呼び方が『山陵志』の中で一つにつながっています。

「百舌鳥耳原中陵=大山陵」と結びつけたのは誰か

ここで資料の構造を整理すると分かりやすくなります。

『延喜式』には、

百舌鳥耳原中陵

とあります。

しかし『延喜式』自身が、

「土地の人々が大山陵と呼んでいるこの古墳こそ百舌鳥耳原中陵である」

と説明しているわけではありません。

その二つを重ねて説明しているのは、今回読んだ範囲では『山陵志』の蒲生君平です。

蒲生君平は『日本書紀』の百舌鳥の説話も引用し、『古事記』の表記や周辺の地名なども検討しながら陵の位置を考えています。

つまり、古い文献だけを読んで終わるのではなく、

古代の陵名と現地に残る地名・呼称を突き合わせて比定しようとしている

わけです。

歴史上の場所を特定する作業がどう行われるのか、その一例としても興味深いところです。

ただし「蒲生君平がそう言った=確定」ではない

もちろん、『山陵志』にそう書かれているからといって、それだけで問題がすべて解決するわけではありません。

蒲生君平による考証は、あくまで一つの比定です。

行政機関による陵墓の指定とは違います。

考古学的な発掘によって被葬者が確認されたという話とも違います。

さらに、

蒲生君平の考証が、その後どのように現在の宮内庁の陵墓管理へつながっていったのか

についても、今回は資料を追えていません。

ここを飛ばして、

「江戸時代に蒲生君平が発見したので、現在も仁徳天皇陵になっている」

というような話を作ることはできません。

その間の歴史が抜けているからです。

現在、宮内庁は「百舌鳥耳原中陵」としている

では、現在はどうなっているのでしょうか。

宮内庁の歴代天皇陵の案内では、第16代仁徳天皇の陵として、

百舌鳥耳原中陵

が掲載されています。

所在地は大阪府堺市堺区大仙町。

陵形は前方後円です。

つまり現在の宮内庁が使用している陵名は、『延喜式』に記されたものと同じ、

百舌鳥耳原中陵

です。

1000年以上前の諸陵式に現れる名称が、現在も陵墓名として使われていることになります。

一方、世界遺産では「仁徳天皇陵古墳」

しかし、別の公的な資料を見ると呼び方が変わります。

百舌鳥・古市古墳群は世界遺産に登録されています。

その構成資産としての名称は、

仁徳天皇陵古墳

です。

百舌鳥・古市古墳群の公式サイトでも同じ呼び方が使われています。

同サイトによれば、墳丘長は486メートル。

濠を含めた全長は840メートル。

墳丘の周囲には三重の濠があります。

「日本最大の巨大前方後円墳」と説明されています。

つまり現在だけを見ても、

宮内庁では、

百舌鳥耳原中陵。

世界遺産関係では、

仁徳天皇陵古墳。

そして一般には、

大仙陵古墳・大山古墳

といった名称を見ることになります。

世界遺産になった=仁徳天皇の墓と証明された、ではない

ここは分けておく必要があります。

「仁徳天皇陵古墳」という名称で世界遺産になっていると、

世界遺産委員会が仁徳天皇の墓だと認定した

ように感じるかもしれません。

しかし、今回確認した文化庁の国指定文化財等データベースを見る限り、世界遺産の登録基準はそこではありません。

評価されているのは、

墳墓群の規模や形が当時の政治・社会構造を示していること。

そして、

日本列島独自の墳墓形式を示す顕著な事例であること。

といった点です。

「仁徳天皇の被葬者であることが確認されたから登録した」

という基準ではありません。

名称と、被葬者の実証は別の問題として考える必要があります。

古墳内部がまったく分かっていないわけでもない

一方、

「宮内庁が管理しているから中のことは何も分からない」

と考えるのも単純すぎます。

百舌鳥・古市古墳群の公式サイトでは、江戸時代の史料に、

後円部に大型の石棺がある

という記録があると紹介しています。

さらに明治時代には、前方部で竪穴式石室が発見されたとされています。

その石室には、

長持形石棺

や、

金銅装の甲冑をはじめとする副葬品

が納められていたことが確認された、と説明されています。

つまり、まったく手掛かりがない古墳というわけでもありません。

ただし今回確認した情報の中に、

被葬者の名前を直接示す資料が出土した

という説明はありません。

ここも区別しておきたいところです。

「大仙陵古墳」という名前はどこから来たのか

現在よく使われる大仙陵古墳という名前。

今回の資料の流れを見ると、その背景を考える手掛かりになるのが『山陵志』の、

「大山陵」

です。

現在の所在地は堺市堺区大仙町です。

大山・大仙という似た呼び方が残っています。

ただし、

「大山陵がそのまま大仙陵という名称に変化した」

と今回の資料だけで証明できたわけではありません。

その間の表記変化や行政上の名称の歴史までは追えていないからです。

ここは次に調べる余地があるところです。

名前を時代順に並べると、古墳を見る目が変わる

今回確認した資料を時代順に並べると、面白い流れになります。

まず『日本書紀』。

ここでは、

百舌鳥耳原

という地名が現れます。

次に『延喜式』。

ここでは仁徳天皇の陵として、

百舌鳥耳原中陵

が記されています。

さらに『山陵志』。

古い「百舌鳥耳原中陵」という記録を現地と照らし合わせ、

土地の人々が「大山陵」と呼んでいる

と書いています。

そして現在。

宮内庁は、

百舌鳥耳原中陵。

世界遺産関係では、

仁徳天皇陵古墳。

一般的な考古学的名称などでは、

大仙陵古墳・大山古墳。

複数の呼び方が並んでいます。

同じ巨大古墳でも、どの立場から見るかによって名前が変わるわけです。

名前がつながることと、被葬者が証明されることは別

今回、古い資料を追っていくと、

百舌鳥耳原
→ 百舌鳥耳原中陵
→ 大山陵

という名称のつながりが見えてきました。

しかも現在も宮内庁では「百舌鳥耳原中陵」が使われています。

そのため、

「それなら仁徳天皇陵で間違いないのでは?」

と思いたくなるところです。

しかし、名称が歴史的につながって見えることと、

その古墳の被葬者が考古学的・史料的に確定すること

は別の問題です。

『日本書紀』と『延喜式』には現在の地図上の古墳を直接指し示す情報はありません。

『山陵志』では蒲生君平が現地と古文献を照らし合わせていますが、それは後世の比定です。

さらに、その比定から現在の宮内庁管理へ至る過程についても、今回の記事では追えていません。

だから、

「仁徳天皇の墓だと証明された」

とも、

「仁徳天皇とは無関係だ」

とも、今回の資料だけでは言えません。

むしろ面白いのは、人々がこの巨大古墳をどのような名前で認識し、古い記録と結びつけてきたのかという歴史です。

今回確認できたこと

今回確認した資料をまとめます。

『日本書紀』仁徳天皇六十七年条では、河内の石津原で陵地を定め、陵を築き始めたと記されています。

同じ記事に、百舌鳥が鹿の耳から飛び出したことから、

「百舌鳥耳原」

と名づけたという説話があります。

『延喜式』諸陵式では、仁徳天皇陵を、

「百舌鳥耳原中陵」

とし、和泉国大鳥郡にあると記しています。

同じ場所には、

百舌鳥耳原南陵

百舌鳥耳原北陵

も挙げられています。

『山陵志』は、この百舌鳥耳原中陵について考証し、

土地の人々が「大山陵」と呼んでいる

と記しています。

現在、宮内庁は堺市大仙町の巨大前方後円墳を、

百舌鳥耳原中陵

として管理しています。

一方、世界遺産の構成資産としては、

仁徳天皇陵古墳

という名前が使われています。

そして現在一般には、

大仙陵古墳

という名称も広く使われています。

つまり、この古墳には一つだけの名前があるのではありません。

古代の史料、後世の考証、現在の陵墓行政、世界遺産、考古学的な呼称。それぞれの文脈で違う名前が使われています。

名前を追うだけでも、この古墳が長い時間の中でどのように見られてきたのかが少し見えてきます。

今回確認した資料について

この記事では、『日本書紀』仁徳天皇六十七年条、『延喜式』諸陵式、『山陵志』の該当部分を確認しました。

現在の情報については、宮内庁、文化庁の国指定文化財等データベース、百舌鳥・古市古墳群公式サイトを確認しています。

ただし、『日本書紀』『延喜式』の陵名が現在の古墳へどのような過程で比定され、宮内庁管理へつながったのかについては、今回確認できていません。

また、被葬者を考古学的に確定するものでもありません。

この記事では、史料の中に現れる名称と、それらが現在どのように使われているかを中心に見ています。

参考資料

  • 宮内庁「歴代天皇陵のご案内」「陵墓」

  • 国指定文化財等データベース(文化庁)

  • 百舌鳥・古市古墳群 公式サイト

  • 『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社、1901年

  • 『延喜式:校訂』下巻 皇典講究所・全国神職会校訂、1931年

  • 蒲生秀実『山陵志』刊年不明

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