長篠の戦いといえば、織田・徳川軍が三千挺の鉄砲を三組に分けて、交代で撃ち続けた——いわゆる三段撃ちの話が有名です。「長篠の戦いで織田軍が鉄砲三千挺を三段撃ちした」という理解が広く流布しています。ほんとうにそう書いてある史料はあるのでしょうか。
結論から書きます。あります。ただし、それが書いてあるのは戦いから約110年後に編まれた本です。 そして、より古い『信長公記』の側には、同じ記述が見あたりません。鉄砲の数も違います。
この記事は「三段撃ちはなかった」と言うためのものではありません。どのイメージが、どの史料に、いつの時点で確認できるのかを分けてお見せします。
核心を先に一覧で
| 『信長公記』(1881年刊本) | 『織田軍記』=『總見記』(序は1686年) | |
|---|---|---|
| 鉄砲の数 | 千挺ばかり(ほかに別働隊へ五百挺) | 三千余人/同じ章の後段に三千挺 |
| 交代で撃つ話 | 見あたらない | 千挺ずつ三かわりにして放てという下知として載る |
| 成立の時期 | 事件からしばらくのちに成ったとされる | 戦いから約110年後 |
| 性格 | 織田家に仕えた太田牛一の記述 | 先行の軍記を増補・訂正したと序が述べる |
この表が記事の核心です。以下はその中身です。
『信長公記』が書いていること
ここで参照したのは、1881年に甫喜山景雄が刊行した『信長公記』巻之中です。天正三年五月の長篠の記事に、こうあります。
佐々蔵介・前田又左衛門・野々村三十郎・福富平左衛門・塙九郎左衛門を奉行として、鉄砲千挺ばかりを配した——。この1881年刊本では、三千ではなく千挺ばかりと記されています。
同じ記事の中には別の数字も出てきます。長篠の上の鳶ヶ巣山へ向かった別働隊には、信長の馬廻の鉄砲五百挺が加えられたと書かれています。ひとつの史料の中でも、場面ごとに数が違います。 この記事では合計を計算しません。
そして、交代で撃たせたという記述は、この記事には見あたりません。
まぎらわしいのは、この記事にも「入れ替わり」という言葉が出てくることです。ただしそれは、攻めてきた武田方の部隊についての記述です。山県・正用軒・西上野小幡一党・典厩一党・馬場美濃守の順に入れ替わり掛かってきて、五月廿一日の日の出から未刻まで入れ替わり相戦った、という書き方をしています。入れ替わっているのは撃つ側ではなく、攻める側です。
『織田軍記』が書いていること
では三千挺と三段撃ちはどこにあるのか。『織田軍記』、別名『總見記』です。ここでは『通俗日本全史』第7巻(1913年)に収められたものを参照しました。巻第十五「長篠合戦事」に、はっきり書かれています。
諸手から選び出された鉄炮の者三千余人を真っ先に進ませ、佐々内蔵助成政・前田又左衛門利家・福富平左衛門・塙九郎左衛門・野々村三十郎・丹羽勘助・徳山五兵衛の七人を奉行に仰せ付けた——。
続けて、こうあります。敵が進み来ても一度に放たず、千挺ずつ三かわりにして敵を狙い、間近く引きつけて放て、無駄打ちをするな、という下知だった、と。
そして同じ章の後段には、味方三千挺の鉄砲という言い方も出てきます。「三千余人」と「三千挺」で数え方が揺れています。
この本だけではありません。参謀本部が編んだ『日本戦史 長篠役』(1911年)の補伝は、三千挺と、奉行たちが相替って下知したという記述を、前田家関係の家譜や覚書からも引いています。ただしこれは孫引きです。少なくとも『日本戦史 長篠役』補伝では、三千という数字が前田家関係の家譜・覚書にも見えると紹介されている、というところまでです。
その本はいつ、どうやって書かれたのか
ここが大事なところです。
『通俗日本全史』の例言によれば、撰者は遠山信春。外題の『織田軍記』は元禄版に従ったもので、撰者は貞享頃の人であり、信長の孫である貞置に就いて事蹟の真偽を正したことが跋文から分かる、とされています。
序には貞享三年の日付があります。長篠が天正三年ですから、約110年後です。
さらに、その序自身がこう述べています。小瀬甫庵の記したものがあり、その略なるところは増し、誤れるところは削って編んだ、と。つまり独立した記録ではなく、先行する軍記を増補・訂正した本だと、書いた側が明言しているわけです。
史料の格付けについても、この記事の判断ではなく、東京帝国大学史料編纂所の区別をそのままお見せします。『史料綜覧』は長篠の綱文を立てるにあたり、根拠として細川侯爵家文書・賀茂別雷神社文書・原本信長記・三河物語・當代記・兼見卿記・多聞院日記などを挙げ、甲陽軍鑑・甫庵信長記・總見記・長篠軍記・長篠合戰繪屛風などは〔參考〕として区別しています。
武田方は馬に乗って攻めたのか
もうひとつ、「武田の騎馬軍団が馬防柵の前で鉄砲隊に撃たれて壊滅した」という理解も流布しています。 こちらはどうでしょうか。史料は正面から食い違います。
『信長公記』は、三番に掛かってきた西上野小幡一党を赤武者とし、関東衆の馬上の功者までが馬を入れる行であったと書いています。ただし、これは武田方全体の話ではありません。小幡一党という特定の部隊についての記述です。
一方、武田方に連なる立場から書かれた軍学書『甲陽軍鑑』は、まったく違うことを書いています。馬に乗るのは大将と役者で一備えの中に七八人、残りは皆、馬を後ろに引かせ、下り立って一備えで掛かった、と。
さらに同書は、「武田武者馬を入るると云ふ儀、それも虚言なり」とまで書き、長篠の戦場は馬を十騎と並べて乗るような所ではない、とも述べています。同書は三方ヶ原についても同じことを言っています。
討った側の記録には馬上の記述があり、討たれた側に連なる書物は騎馬突撃を虚言だと書いている。 この記事は、どちらかを実際の姿として採りません。二つの記述がある、という形で残します。
柵は何をしたのか
馬防柵についても、史料の書き方は単純ではありません。
『信長公記』は、家康・滝川の陣取りの前に馬防のため柵を付けさせられたと記しています。「馬防柵」という一語ではなく、柵の目的が馬防だったという書き方です。柵が馬を防ぐためのものだったことは、この史料の側から言えます。
ただし『甲陽軍鑑』は、土屋衆・一条衆・穴山衆が佐久間右衛門の方の柵の木を二重まで破ったとし、柵の木が三重まであったので城攻めのようになった、と書いています。柵は破られた箇所もあったということになります。
鉄砲と柵で騎馬軍団を完全に粉砕した、という一枚絵のような図式には、史料の側は収まっていません。
戦いの経過
数や戦術の話が有名になりすぎていますが、経過そのものは淡々としています。史料編纂所の『史料綜覧』が立てた綱文で追います。
天正三年四月廿一日、武田勝頼が三河に入り、徳川家康の将である奥平信昌を長篠城に攻めます。決戦の前に、一か月におよぶ城の攻囲があります。
五月十八日、家康が三河高松山に、信長が極楽寺山に陣し、諸軍を部署して長篠城を援けます。勝頼は滝沢川を渡って対峙しました。
そして五月廿一日。『史料綜覧』の綱文は「信長、德川家康ト共ニ、武田勝賴ト三河長篠ニ戰ヒテ、大ニ之ヲ破ル、勝賴、身ヲ以テ遁ル」とします。長篠の戦いは天正三年五月廿一日に三河で戦われたとされます。
なお、この記事では和暦の日付を基本の表記にします。天正三年にあたる西暦の年は1575年ですが、日単位の換算については、この記事の出典の範囲で根拠を確認できていません。
決戦の前夜も動いています。『信長公記』は、五月廿日の戌刻に別働隊が川を越えて長篠の上の鳶ヶ巣山へ向かい、五月廿一日の辰刻に取り上ったと記しています。正面の決戦だけで勝敗を説明できる形にはなっていません。
武田方の損害について、『信長公記』は討ち取った頸の見知り分として山県三郎兵衛・西上野小幡・横田備中・真田源太左衛門・土屋宗蔵・馬場美濃守らの名を挙げ、宗徒の侍と雑兵あわせて一万ばかりが討死したと記しています。ただしこれは討った側が記した数です。
なぜ武田方は敗れたのか
敗因についても、この記事はひとつに決めません。書物ごとに、それぞれの説明があります。
『甲陽軍鑑』の説明はこうです。柵の木が三重まであって城攻めのようになったため、大将たちがことごとく鉄砲に当たって死んだ。
同書はまた、長篠の前に馬場美濃守・山県三郎兵衛・内藤修理正の三人が三ヶ条の諫言をしたが、長坂長閑らの意見が通って勝頼が退かなかった、という経緯も載せています。ただし同書は、これを「阿部加賀守が語った」ものだと書いています。 伝聞であることが、書き手の側から示されているわけです。のちに広まる「勝頼が重臣の諫めを聞かなかった」という筋書きの、早い形にあたります。
近代の研究はどう書いたか
ここからは研究の話になります。ただし現在の研究状況ではありません。
田中義成『織田時代史』(1926年)は、長篠について、信長が銃手三千人を抽んで諸隊に柵を軍前に設けさせ、佐々成政・前田利家・塙直政らに指揮させたと叙述しています。典拠として信長記・三河物語・松平記を挙げています。1926年の研究者は三千の側を採っていました。
射撃法についても、田中は、敵が馳せ至っても遽に銃を発するな、已に逼るに及んで毎手迭に発せよと信長が戒めた、と書いています。交代で撃つ筋書きは、この時期の研究書の叙述にも入っていました。ただし『織田軍記』の「千挺ずつ三かわり」とは言い方が違います。同じものとして扱いません。
そして田中は、この戦いの評価をこう書きました。特に注意すべきは信長が銃隊を組織して敵を斃したことであり、隊伍を組織するに至ったのはこの役をもって初めとする、ゆえに長篠の戦は戦術史上に一新紀元を画したものというべきだ、と。
「長篠は画期だった」という言い方をよく見かけますが、これは1926年の田中義成の評価です。 この記事は、これを本サイト自身の判断として繰り返しません。
絵の扱いも変わってきました
同じ田中は、東京帝国大学図書館蔵の長篠合戦図について、当時の実況を写したもののようだと評しています。
一方、近年の報告は違う見方をしています。村岡ゆかりは、「長篠合戦図屛風」が代表的なもので12点確認されているとし、東京国立博物館所蔵本は19世紀に制作された狩野晴川院養信の手になる下絵と推定されると記しています。
さらに『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第94号の文献案内は、多くの屛風の祖型とされる成瀬家本について、小口康仁が、『甲陽軍鑑』付属の絵図と『甫庵信長記』など軍記から情報を集めて成立したと結論づけている、と紹介しています。
わたしたちが思い浮かべる長篠の絵は、同時代の記録ではありません。 そしてその絵そのものが、軍学の絵図と軍記から組み立てられた可能性が指摘されている、ということになります。
この記事で言えないこと
射程を越えそうなところを、先にお断りしておきます。
ひとつめ。三段撃ちがあったともなかったとも、この記事は言いません。 言えるのは、千挺ずつ三かわりという文言が貞享三年序の編纂物に載っていること、そして『信長公記』の該当記事には見あたらないこと、までです。
ふたつめ。「『信長公記』は千挺と書いている」と一般化できません。 参照できたのは1881年刊本ひとつだけで、ほかの写本・刊本系統に到達できませんでした。同じ理由で、「写本によって数が違う」とも書けません。 言えるのは「この1881年版は千挺と記す」「三千の数値は『織田軍記』系に見える」までです。
みっつめ。武田騎馬軍団が存在したともしなかったとも言いません。 史料が食い違っているという事実を残します。
よっつめ。敗因を一つに決めません。 上に挙げたのは、それぞれの書物の説明です。
いつつめ。現在の研究がこれらをどう扱っているかを、この記事は書けません。 三段撃ちや鉄砲数を正面から論じた現代の研究で、全文を読めるものに到達できなかったからです。読んでいないものを要約すると、紹介の紹介が独り歩きします。ここは空白のままにしておきます。
むっつめ。原文の引用ブロックを置いていません。 ここで参照した『信長公記』『甲陽軍鑑』は文字認識の精度が一字一句の再現に耐えず、『織田軍記』を収めた1913年の本は、例言が「読み易きを主とし」語句を改めたと明記しています。本文中の鍵括弧つきの短い語句も、原文をそのまま写したものではありません。
参考にした資料
この記事が実際に読んだ資料です。
- 『信長公記』巻之中(太田牛一 著、甫喜山景雄 刊、1881年)— 国立国会図書館デジタルコレクション pid 781193
- 『甲陽軍鑑』(山田弘道 校、1893年)— pid 899828
- 『通俗日本全史』第7巻(早稲田大学編輯部 編、1913年。『織田軍記』一名『總見記』所収)— pid 770205
- 『史料綜覧』巻11(東京帝国大学史料編纂所、1944年)— pid 2994257
- 参謀本部 編『日本戦史 長篠役』(1911年)— pid 771066
- 田中義成『織田時代史』(明治書院、1926年)— pid 1918575
- 村岡ゆかり「「長篠合戦図屛風」武将の対比画像」『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第94号、2021年 — 東京大学学術機関リポジトリ
- 「文献案内」同第94号、2021年 — 同リポジトリ

