関ヶ原の戦い|小早川秀秋の寝返りは、どの資料でどこまで追えるのか
関ヶ原の戦いで、特に有名な場面があります。
松尾山に陣取った小早川秀秋が、なかなか動かない。
しびれを切らした徳川家康が秀秋の陣へ鉄砲を撃ち込ませる。
その音に促されるように秀秋が山を下り、大谷吉継の軍を背後から攻撃する。
そして西軍が崩れた――。
いわゆる**「問鉄砲」**の話です。
「家康が鉄砲を撃たせたことで、小早川秀秋は西軍を裏切った」
そんな筋書きで覚えている人も多いでしょう。
では、この有名な場面は、どの資料まで遡れるのでしょうか。
今回、資料を時代順に並べてみると、少し違った景色が見えてきました。
決戦の前日には、すでに東軍側から小早川秀秋の家臣へ誓書が与えられています。
一方、関ヶ原から遠く離れた京都の日記では、その前日に秀秋の離反はまだ姿を見せません。
そして戦いの後になると、「叛逆」「手返」「ウラカヘリ」として一斉に記録される。
さらに約113年後の軍記になって、ようやく有名な「鉄砲」が登場します。
今回は、この違いを一つにまとめず、
前日の交渉。
当時の人々に届いた情報。
後世の軍記。
現代の研究。
という順に見ていきます。
- まず、資料を六つの層に分ける
- 関ヶ原の戦いそのものはどう記されているか
- 決戦前日――すでに誓書が交わされている
- 西軍側も秀秋を疑っていたとされる
- 同じ九月十四日、京都の日記には秀秋が出てこない
- 戦いが始まると、京都の日記に一気に秀秋が現れる
- 『舜旧記』には「巳の刻」が出てくる
- 「巳の刻」は、何の時刻なのか
- 『中臣祐範記』では「西軍優勢からの裏切り」として伝わる
- 離反したのは秀秋一人ではないと伝わっていた
- 同時代の日記にも、普通に誤報がある
- では、有名な「問鉄砲」はどこに出てくるのか
- 『関原軍記大成』は関ヶ原から約113年後
- しかも『関原軍記大成』自身が、鉄砲だけで寝返ったとは書いていない
- 同じ軍記が「問鉄砲ではなかった」という話まで載せる
- 現代研究は「寝返る直前まで味方だと思われていた」と見る
- 二か月前には、秀秋は西軍側として行動していたとされる
- では、秀秋はいつ寝返りを決めたのか
- 「鉄砲を撃たれて寝返った」は、少し単純すぎる
- 「西軍の総大将=石田三成」も少し整理が必要
- 毛利方についても、戦い直後の情報は錯綜していた
- 私たちが見る「関ヶ原布陣図」も後世のもの
- 有名な物語を、いったん時間順に分解する
- 今回確認できたこと
- 「問鉄砲は嘘だった」とも言えない
- 小早川秀秋の寝返りは、どこまで追えるのか
- 今回確認していないこと
- 参考資料
まず、資料を六つの層に分ける
今回の記事では、小早川秀秋の寝返りを次の六つの層に分けて考えます。
| 層 | 資料 | 確認できること |
|---|---|---|
| ① | 九月十四日の誓書 | 決戦前日に東軍側から秀秋側へ誓書が与えられた |
| ② | 九月十四日の京都の日記 | 白峰旬が整理した範囲では、秀秋の離反はまだ記されない |
| ③ | 九月十五日以後の京都の日記 | 「叛逆」「手返」「ウラカヘリ」として伝わる |
| ④ | 『関原軍記大成』 | 家康が秀秋の陣へ「誘鉄炮」を撃たせる話が現れる |
| ⑤ | 同軍記が載せる別説 | その鉄砲は湿った火薬を撃ち払っただけだという話もある |
| ⑥ | 現代研究 | 裏切る直前まで同時代人は秀秋を味方と考えていた、と整理される |
この六つを混ぜないことが、今回の記事のポイントです。
関ヶ原の戦いそのものはどう記されているか
まず戦いの大枠から確認します。
『史料綜覧』は、慶長五年九月十五日の綱文で、
徳川家康が石田三成らの関ヶ原出陣を聞き、諸将の部署を定めたこと。
家康自身が桃配野に陣したこと。
東軍先鋒の福島正則と宇喜多秀家の戦闘から両軍の合戦が始まったこと。
そして、
小早川秀秋が東軍に応じ、大谷吉継の背後を攻撃したことによって西軍が大敗した
という流れを立てています。
つまり、「秀秋が西軍側から東軍側へ動いたこと」そのものは、『史料綜覧』でも関ヶ原の勝敗を左右する出来事として置かれています。
では、その決断はいつ、どのように行われたのでしょうか。
決戦前日――すでに誓書が交わされている
前日の九月十四日を見ます。
『史料綜覧』は、この日以前の動きとして、
秀秋がすでに東軍へ通じていたこと。
近江石部に留まり、兵を進めなかったこと。
それを石田三成が疑い、美濃へ入るよう求めたこと。
黒田長政が秀秋の老臣・平岡頼勝を説得したこと。
などを綱文にしています。
そして九月十四日。
井伊直政・本多忠勝が平岡頼勝らへ誓書を与えた
としています。
つまり、『史料綜覧』の組み立てでは、
小早川方と東軍の交渉は、関ヶ原当日の朝に突然始まったわけではありません。
決戦前日の段階で、誓書まで交わされています。
これは、有名な「鉄砲を撃たれて初めて寝返った」という物語を見るうえで、かなり重要な材料です。
西軍側も秀秋を疑っていたとされる
同じ九月十四日の綱文には、
宇喜多秀家や石田三成らが秀秋の叛意を察し、
秀秋を人質にしようと大垣へ招いたものの、秀秋が応じなかった、
という内容もあります。
つまり『史料綜覧』の整理では、
決戦前日には東軍との交渉が進み、西軍側も秀秋を疑っていた
ことになります。
ここまで読むと、
「では、秀秋の寝返りは前日に完全に決まっていたのではないか」
と思いたくなります。
しかし、ここで別の資料を見ると、少し違う姿が出てきます。
同じ九月十四日、京都の日記には秀秋が出てこない
白峰旬は、関ヶ原前後に京都にいた公家・僧侶らの日記を日付順に整理しています。
それを見ると、九月十四日については大津城攻防などの記録はあるものの、
小早川秀秋の離反に関する記載は載っていません。
これは面白い対照です。
一方では、前日に誓書が交わされていたとする材料がある。
しかし、京都にいた人々の日記には、その情報がまだ現れない。
つまり、
交渉は進んでいたが、そのことを当時の人々が広く知っていたわけではない
という状況が見えてきます。
ただし、これは白峰が整理した日記の範囲で確認できない、という意味です。
すべての同時代資料に秀秋の記述が無い、という意味ではありません。
戦いが始まると、京都の日記に一気に秀秋が現れる
九月十五日の戦いのあとになると、状況は一変します。
白峰の整理によれば、関ヶ原について具体的な記述がある京都の日記の中で、
『舜旧記』
『言経卿記』
『時慶記』
『中臣祐範記』
などが小早川秀秋の離反に触れています。
そこで使われている言葉はかなり強烈です。
「叛逆」
「手返」
「ウラカヘリ」
同時代の人々が、秀秋の行動を明確な陣営変更として受け止めていたことが分かります。
『舜旧記』には「巳の刻」が出てくる
白峰が紹介する『舜旧記』九月十五日条では、
家康方の先勢が合戦を始め、
大谷吉継の軍勢が敗北し、
大谷吉継が討死したこと、
そしてそれが秀秋の反逆によるものであったことが記されているとされています。
さらに、
「巳の刻」
という時刻が出てきます。
白峰の現代語訳では、午前十時頃です。
ここだけを見ると、
「小早川秀秋は午前十時頃に寝返った」
と書きたくなります。
しかし、今回はそうしません。
「巳の刻」は、何の時刻なのか
理由は三つあります。
まず、白峰の訳文では、
大谷吉継の敗北。
秀秋の反逆。
巳の刻。
という情報が並んでいます。
しかし、
巳の刻が秀秋の寝返りそのものを指しているのか、大谷軍の敗北を指しているのか、戦闘全体の一場面を指しているのか
までは決められません。
さらに、『舜旧記』の記主は京都にいます。
関ヶ原で時計を見ていた人物ではありません。
そして今回、私は『舜旧記』の刊本そのものを読んでいません。
白峰論文による紹介と現代語訳までです。
したがって今回言えるのは、
秀秋の離反に関係する記事の中で、「巳の刻」に触れる同時代の日記が存在する
というところまでです。
『中臣祐範記』では「西軍優勢からの裏切り」として伝わる
白峰が紹介する『中臣祐範記』は、さらに印象的です。
そこでは、
合戦はたびたび行われ、
上方衆が優勢だった
ところ、
秀秋が裏切り、
背後から一万五千余の兵で攻撃したため上方衆が敗れた、
という趣旨が記されているといいます。
しかも、
秀秋の行動は卑怯であるとして世間から嘲笑された
という内容まであります。
ここに見えるのは、後世の英雄物語ではありません。
戦いの直後に京都へ届いた、
「優勢だった側が裏切りによって敗れた」
という理解です。
もちろん、この日記が戦場の正確な経過を完全に再現しているとは限りません。
後で見るように、同時代の日記には誤報も混じっています。
離反したのは秀秋一人ではないと伝わっていた
『時慶記』九月十七日条について、白峰は、
秀秋の「手返」によって天下騒動となったこと、
そして、
「手返ノ衆」は四人だったと聞いた
という記載を紹介しています。
つまり京都では、
寝返ったのは秀秋一人ではない
という情報が流れていたことになります。
関ヶ原は小早川秀秋一人の裏切りで決まった、という物語にまとめてしまうと、このような情報は見えにくくなります。
同時代の日記にも、普通に誤報がある
ここで一つ大事なことがあります。
同時代の日記だからといって、書かれていることがすべて正しいわけではありません。
『中臣祐範記』では、同じ九月十五日の記事で、
石田三成が討死した
と記されていたと白峰は紹介しています。
しかし三成はこの日に死んでいません。
『北野社家日記』にも同様の記述があり、白峰は誤報としています。
また『言経卿記』には、宇喜多秀家が後に自害したという情報が出てきますが、これも誤報です。
つまり、同時代の日記は、
「実際に何が起きたか」の完成された答え
ではありません。
むしろ、
その時点で人々が何を聞き、それをどう理解していたのか
を知る資料です。
ここを分けておく必要があります。
では、有名な「問鉄砲」はどこに出てくるのか
ここで、ようやく鉄砲の話です。
確認できるのは、
『関原軍記大成』
です。
同書では、家康が久保島という人物に対して、
小早川秀秋の陣へ向かって**「誘鉄炮」**を撃たせ、様子を見よ、
と命じたと記しています。
さらに、二人の鉄砲頭がそれぞれ十挺ほどの鉄砲を松尾山へ向けて放った、
という描写があります。
これが、現在よく知られる「家康が小早川陣へ鉄砲を撃ち込ませた」という話につながります。
しかし、ここで年代を見る必要があります。
『関原軍記大成』は関ヶ原から約113年後
『関原軍記大成』の序は正徳三年、1713年です。
関ヶ原の戦いは1600年。
およそ113年後です。
つまり、
問鉄砲の詳細な場面は、少なくとも今回確認した資料では、戦いから一世紀以上後の軍記に現れる
ことになります。
これは、
「だから全部作り話だ」
という意味ではありません。
後世の軍記が古い記録や伝承を利用している可能性は当然あります。
ただ、
1600年の同時代記録と、1713年の軍記を同じ重さで扱うことはできない
ということです。
しかも『関原軍記大成』自身が、鉄砲だけで寝返ったとは書いていない
さらに面白いことがあります。
『関原軍記大成』を読むと、
鉄砲が撃たれたあと、
奥平貞治が秀秋のもとへ近づき、
かねての約束どおり裏切るように
と迫ったと記されています。
また、黒田長政の家臣が以前から秀秋の陣中におり、
平岡石見へ働きかけていたという内容もあります。
重要なのは、
「かねての約束」
という言葉です。
つまりこの軍記自身、
「鉄砲を撃たれて、その瞬間に初めて東軍へ寝返ることを決めた」
という話にはしていません。
鉄砲以前に、すでに交渉があったことを前提にしています。
これは、前日の誓書の話とも不思議に噛み合います。
同じ軍記が「問鉄砲ではなかった」という話まで載せる
さらにややこしいことに、『関原軍記大成』は別の説も載せています。
別本では、
松尾山の麓で鉄砲の音がしたため秀秋が使者を出して確認させたところ、
火薬が湿っていたので、それを撃ち払っただけである
と説明された、
という話です。
つまり同じ軍記の中に、
秀秋を促すために撃った鉄砲
と、
湿った火薬を処理するために撃った鉄砲
という二つの説明が並んでいます。
これはかなり重要です。
問鉄砲を伝える軍記そのものが、一つの話だけを固定していないのです。
今回の記事では、
どちらが正しいとも決めません。
確認できるのは、
同じ軍記に二つの説明が並んでいる
という事実です。
現代研究は「寝返る直前まで味方だと思われていた」と見る
では、現代の研究者はこれらをどう整理しているのでしょうか。
白峰旬は京都の日記の分析から、
小早川秀秋の裏切りが家康方の勝利を決定づけた
としています。
そしてもう一つ重要なのが、
秀秋が裏切るまでは、同時代の人々は秀秋を豊臣公儀方の部将だと強く認識していた
という指摘です。
ここが前日の誓書との面白い対照になります。
裏では東軍との交渉が進んでいた。
しかし外から見ていた人々には、そのことは知られていなかった。
だから戦いが始まったあと、秀秋の行動が、
「叛逆」
「ウラカヘリ」
として大きな衝撃を持って伝わった。
そんな構図が見えてきます。
二か月前には、秀秋は西軍側として行動していたとされる
白峰は『時慶記』慶長五年七月二十二日条についても触れています。
そこには、
小早川秀秋。
大谷吉継。
宇喜多秀家。
毛利家の軍勢。
などが伏見・近江方面へ向かったことが記されているといいます。
白峰はここから、
七月二十二日の時点では秀秋は完全に豊臣公儀方だった
としています。
七月には西軍側。
九月十四日には東軍側と誓書。
九月十五日には戦場で大谷軍を攻撃。
この二か月の中で、秀秋の立場が変化していったことになります。
では、秀秋はいつ寝返りを決めたのか
ここまで読めば、一番知りたくなるのはここでしょう。
結局、秀秋はいつ東軍へ寝返ると決めたのか。
残念ながら、今回の資料だけでは決められません。
七月の段階では西軍側だったとされる。
前日には東軍との誓書がある。
しかし同時代の人々は、戦いが始まるまでそのことを知らなかった。
そして当日の「決断の瞬間」を直接記録した本人の日記のようなものは、今回確認できていません。
つまり、
交渉の過程は見える。
しかし、
本人が腹を決めた瞬間は見えない。
これが今回の到達点です。
「鉄砲を撃たれて寝返った」は、少し単純すぎる
以上を踏まえると、
「秀秋は家康に鉄砲を撃たれて怖くなり、その場で寝返った」
という一文だけでは、かなり多くの情報が落ちます。
少なくとも、
決戦前日に誓書がある。
それ以前から東軍側との交渉が進んでいた。
西軍側も秀秋を疑っていたとされる。
そして問鉄砲を描く軍記自身も「かねての約束」があったと書いている。
ここまでは確認できます。
したがって、
仮に問鉄砲そのものが実際にあったとしても、それだけが寝返りを決めた唯一の原因だった
とまで言うのは難しそうです。
「西軍の総大将=石田三成」も少し整理が必要
関ヶ原には、もう一つよく知られた図式があります。
東軍総大将・徳川家康。
西軍総大将・石田三成。
というものです。
しかし、『史料綜覧』を見ると、毛利輝元について、
大坂城西丸へ入り、
豊臣秀頼に代わって諸将を督した、
という綱文が立てられています。
白峰旬も、
慶長五年七月には、
石田三成と毛利輝元を中心とする「石田・毛利連合政権」
が形成されたと論じています。
また白峰は、布谷陽子の説として、
西軍の指揮を石田三成一人に集中させて考えるのではなく、
二大老・四奉行
を軸に見るべきだという議論を紹介しています。
ただし、布谷論文そのものは今回読んでいません。
そのため、
「三成は総大将ではなかった」
と単純に言い換えることもしません。
確認できるのは、
西軍を石田三成一人の軍として描くより、毛利輝元を含む複数の権力者による政権・軍事体制として捉える研究がある
というところです。
毛利方についても、戦い直後の情報は錯綜していた
白峰が紹介する『義演准后日記』九月十八日条では、
毛利秀元が退却したこと。
吉川広家が降参したこと。
そして広家について、
「卑怯、卑怯」
と書かれているとされます。
一方、『北野社家日記』には、
毛利輝元と家康は同心である
という情報が記されているといいます。
戦いからわずか数日後です。
当時の人々の間でも、
誰がいつ家康と通じていたのか。
誰が寝返ったのか。
誰が単に戦わなかっただけなのか。
情報がかなり入り乱れていたことが分かります。
私たちが見る「関ヶ原布陣図」も後世のもの
さらに、関ヶ原の戦いそのものをイメージするときにも注意が必要です。
現在よく見る布陣図では、
西軍。
東軍。
松尾山の小早川軍。
大谷軍。
石田三成の陣。
などがきれいに配置されています。
しかし白峰旬は、
近年まで広く使われてきた関ヶ原の布陣図が、
明治26年刊の参謀本部編『日本戦史 関原役』
の図を受け継いでいると指摘しています。
また現在の陣跡地の比定も、
明治25年の神谷道一『関原合戦図志』などを参考にして決められたもので、
慶長五年当時の一次史料から直接確認されたものではない
という指摘があるとしています。
つまり、
私たちが「関ヶ原の戦場」として頭に思い浮かべている図そのものにも、後世の整理が入っています。
有名な物語を、いったん時間順に分解する
今回確認したものを時間順に並べると、こうなります。
慶長五年七月。
秀秋は豊臣公儀方として動いていたと現代研究は整理する。
九月十四日。
『史料綜覧』は、東軍側から秀秋家臣へ誓書が与えられたことを立てる。
一方、京都の日記には白峰が整理した範囲で秀秋の離反情報は見えない。
九月十五日以後。
京都の日記に、
「叛逆」
「手返」
「ウラカヘリ」
として秀秋の行動が現れる。
1713年。
『関原軍記大成』に、家康が秀秋の陣へ「誘鉄炮」を撃たせる場面が現れる。
ただし同じ軍記が、
鉄砲以前に「かねての約束」があったことも書き、
鉄砲そのものについて別説まで載せる。
こうして並べると、
現在有名な「問鉄砲」の物語は、史料の中で最初から完成した形で存在しているわけではない
ことが分かります。
今回確認できたこと
今回の資料から、次のことは確認できます。
一つ。
関ヶ原前日の九月十四日には、小早川秀秋側へ東軍側から誓書が与えられていたと『史料綜覧』は立てています。
二つ。
白峰旬が整理した京都の日記では、同じ九月十四日に秀秋の離反情報はまだ現れません。
三つ。
戦いのあとになると、
「叛逆」
「手返」
「ウラカヘリ」
という言葉で秀秋の離反が記録されます。
四つ。
有名な「誘鉄炮」の具体的な描写は、今回確認した範囲では関ヶ原から約113年後の『関原軍記大成』に現れます。
五つ。
その『関原軍記大成』自身が、鉄砲以前に「かねての約束」があったと書いています。
六つ。
さらに同書は、鉄砲について「湿った火薬を撃ち払っただけ」という異説も併載しています。
つまり、
小早川秀秋が東軍へ動くための交渉は、問鉄砲の場面より前から進んでいたことを示す材料があります。
一方、
戦場で秀秋が最終的に決断した瞬間
については、今回の資料では特定できません。
「問鉄砲は嘘だった」とも言えない
最後に、ここははっきりさせておきます。
今回の記事は、
「問鉄砲は創作である」
と証明したわけではありません。
同時代資料で今回確認できなかったことと、
実際に起きなかったことは同じではありません。
後世の軍記が、現在失われた情報や伝承をもとに書かれている可能性もあります。
ただし逆に、
有名だから史実として確定している
とも言えません。
今回追えたのは、
前日の誓書。
当日の京都の日記。
約113年後の軍記。
現代の研究。
という異なる時代・性格の資料です。
それぞれが見せるものは違います。
小早川秀秋の寝返りは、どこまで追えるのか
最初の問いに戻ります。
小早川秀秋の寝返りは、どこまで資料で追えるのでしょうか。
今回の範囲では、
決戦前日までに東軍との交渉が具体化し、誓書が与えられていたこと。
その情報を同時代の人々が広く知っていたわけではなかったこと。
戦いのあとには秀秋の行動が「叛逆」「手返」「ウラカヘリ」として伝わったこと。
ここまでは追えます。
一方、
家康の鉄砲が秀秋の決断を直接引き起こしたのか。
秀秋が何時何分に寝返りを決断したのか。
そこまでは確認できません。
有名な場面を一度ばらばらにして、資料を年代順に置き直してみる。
それだけで、
「鉄砲を撃たれて寝返った小早川秀秋」
という一枚絵より、ずっと複雑な関ヶ原が見えてきます。
今回確認していないこと
今回、『舜旧記』『言経卿記』『時慶記』『中臣祐範記』などの日記原典・刊本は直接読んでいません。
日記の内容は、白峰旬の論文が紹介した範囲です。
したがって、「巳の刻」の原文上の掛かり方などについても判断していません。
また、白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」(2008年)は入手できたものの、全ページが画像で正確に本文を読むことができず、この記事では使用していません。
問鉄砲についても、『関原軍記大成』以前の伝承・文献をすべて調べたわけではありません。
今回確認できた資料の中では、1713年序の同書まで遡れた、というところです。
参考資料
-
『史料綜覧』巻13 東京大学史料編纂所、1954年
-
『関原軍記大成』宮川尚古著、正徳三年序/黒川真道編、1916年刊
-
白峰旬「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」『史学論叢』第46号、2016年
-
白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」『史学論叢』第46号、2016年
-
白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その1)」『別府大学紀要』第57号、2016年
-
白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2)」『史学論叢』第46号、2016年


